麒麟がくる 2話

今日の麒麟がいくラストシーンで斎藤道三が娘婿を毒殺するシーン迫力ありました。 平然と殺す少し戦慄が走りました。 長谷川博已私もこのドラマを観て好きになりました。 荒々しい明智光秀をイメージしてましたので長谷川博己の明智光秀はソフトな人間味を感じます。 これからどんなドラマに展開していくのか楽しみです。
 
 
『麒麟がくる』、斎藤道三が本木雅弘だったのは意外に感じましたが2話では凄みが出ていてミスキャストではないようです。
戦国武将の中で天才中の天才は斎藤道三でしょうね。
楽市楽座など織田信長は斎藤道三の真似をしただけです。
斎藤道三は発想力が凄く、もし、織田信長のように生まれたときから1国の領土を持っていたら、天下を取ったでしょうね。
 
明智光秀は、私のイメージでは、色白で物静かで教養があって実務の才能も抜群で責任感がある分自分で自分を追い詰めてしまう感じです。
ですから、1話も2話も、元気で自己主張もどんどんしているのが私のイメージとは違いました。
ただ、斎藤道三も本格的に出てきて、だんだん面白くなってきたと思います。
 
しかし、濃姫(帰蝶)は沢尻エリカで見たかったです。1話2話では、代役の川口春奈は緊張しているのか、間がなく演技が下手でした。緊張している濃姫など見たくないですね。これから慣れていってくれればいいのですが。
沢尻エリカの濃姫は間違いなく後々に語り継がれるはまり役になったと思いますのでこれは残念です。

武漢肺炎


武漢新型肺炎 突然意識がなくなり バタンと倒れる人が急増|新型肺炎|新型コロナウイルス|中国NOW

id:mariy22  

ショーシャンクさん こんばんは コロナウイルス致死率15㌫だんだんとウイルスが耐性化してますね。 もうあちこちの国に拡散され、一種の生物兵器だなと考えてしまいました。 オリンピックが心配です  Bloomberg Newsで 患者の治療計画に、ロピナビルとリトナビルの配合剤であるカレトラを含めたことを明らかにしたとニュースになってます。 効果があれば良いなと思います。
今日の麒麟がいくラストシーンで斎藤道三が娘婿を毒殺するシーン迫力ありました。 平然と殺す少し戦慄が走りました。 長谷川博已私もこのドラマを観て好きになりました。 荒々しい明智光秀をイメージしてましたので長谷川博己の明智光秀はソフトな人間味を感じます。 これからどんなドラマに展開していくのか楽しみです。
 
 
まりさん、おはようございます。
コロナウイルスに関しては、情報が錯綜していますし、出ていない情報も膨大にあるでしょう。
医療に詳しい人たちも、見解が全く分かれていますね。
今回の新型肺炎は、SARSや鳥インフルエンザよりも致死率がずっと低く、普通のインフルエンザよりも感染力が弱い、だから、今ネットで言われているような大げさなものではなく、すぐ収束に向かう、、、と言う人もかなり多いです。
特に、SARSの時のように何ヶ月も隠蔽されていて対策が遅れに遅れた時と違い、すでに原因をコロナウイルスと特定できているのだから、SARSのような被害にはならないと言われています。
しかし、一方で、感染者はすでに10万人を超えているとまでいう人もいてどちらが本当かわからない状況です。
普通に立っている人が突然倒れる動画などを見ると、今までの肺炎のイメージからはほど遠く、何か怖ろしいことが起こっているような気もします。
慎重に予防対策をしていきたいですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

麒麟がくる

owl22 (106.156.113.172)  

ショーシャンクさん、おはようございます。   私もフランスでクジラを食べることを指摘された時、(フォアグラはどうなの?)と思いましたが、ネズミとか、犬なんて嫌悪感マックスです。肉まんも吐き出して本当に良かったですね。時に食用生き物の線引きに疑問をいだきますが、「命をいただきます」、感謝だ、と心に押し込み考えないようにしています。でもまだ放牧のかわいい牛をみて美味しそうとまでなかなか言えないですね。 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が、とうとう始まりましたね。西郷どん以来の歴史大河。ほっとします。 緑が鮮やかで一瞬違和感がありましたが、観ているうちにかえって綺麗に感じるようになりました。色の効果も狙っているのか赤が特にきれいだと感じます。 主演の長谷川博己は、彼の今までの優しい印象プラス、信念を持ち、未来に前向きな印象で、明智の歴史的な最後ばかり頭の中あったのが、それをを拭ってくれ、とても好きになりました。やはり信念を持った人が未来をどう切り開いていくのか、とても楽しみです。 最近ゴーンやトランプのようなパラノイア気質の人に辟易していたので、これをみて 上に立つ人男性への見方をすっきりさせたい(笑)という願いもあります。 以前のご投稿になりますがフラッシュダンスの歌のご紹介、ありがとうございました。 Pictures come alive. (絵に描いたものが実現する)→「ステップを踏めば 人生は光り輝く人生は光り輝く」 引き寄せの法則を思い出しました。良い絵を描いていきますね。 今日も「好日」でありますように。
 
 
owlさん、おはようございます。
何を食べるかは食文化の違いと割り切れないものがありますね。
犬の肉を食べる韓国や中国をどうしても嫌悪してしまいますし、鯨やイルカを食べる日本人を西洋人は嫌悪するでしょう。
中国人の食に対する貪欲さは凄いですね。『飛ぶものは飛行機以外、四つ足は机以外なら何でも食べる』とまで言われている中国人ですから、何でもありです。
中国人はカラスは食べないのでしょうか。日本のカラスを全部食べてくれるとうれしいとカラス嫌いの私は思います(笑)
 
大河ドラマ『麒麟がくる』始まりましたね。
ティム・バートンの映画のような色彩の鮮やかさにはとまどいました。
農民の服までカラフルで、染料がとんでもなく高価な時代、とくに鮮やかな赤やピンクなどにはなかなか染められない時代に、とは思いましたが、明るい画面は好きなので、ありですね。
私は明智光秀が大好きで、その絵像から、色白で教養人で誠実で、でも線が細くて、というような人物を想像しているのですが、1話ではちょっとイメージとは違いました。
しかし、『麒麟がくる』という題名に秘められたドラマの意図は、平和な時代が来た時にだけ現れるという麒麟、その麒麟がくる時代を誰が作っていくのか、ということだと思います。そして、それぞれの人たちがそれぞれの立場から、麒麟がくる時代を切り開いていく群像劇なのだと思います。
それは戦国大名だけでなく、町医者の助手の女の子も、あるいは堺の商人たちも、夢のある人はみんなということだと思います。
そういう視点から見ていこうと思っています。
 
 
 

武漢

id:mariy22  

ショーシャンクさん こんばんは コメントの欄が表示されてました。 お手数おかけしました。 今回の新型肺炎の媒体はコウモリだったとか? 香港に行った時生まれたてのネズミが食用として元気が出るとかで売ってた事にビックリした思い出があります。 野生動物を人が食べ病気のウイルスを貰うケースが多々エボラ出血熱も猿が媒体でした。 今回のコロナウイルス各国に飛び火収束するまで 時間かかりそう。 国が違うと食文化も異なりますね。 アメリカの人は鮮魚のお刺身食べませんし鍋物を多くの人と箸で囲んで食する事も嫌います。 今ニュースでシンガポールでも感染者が出たとか。 春節の終わった後、日本に新型肺炎罹患者が出ない事を願いたいです。
 
 
まりさん、こんにちは。
中国には困ったものですね。何でも食べますからね。
今回のコロナウイルスは武漢で発生しています。
そういえば、武漢は非常にやばいところでした。
列車で武漢に旅したとき、昼食を列車の食堂車で注文していたのですが料理が遅れに遅れて料理が出る前に武漢に着いてしまったのです。
もう午後2時を過ぎていて、その頃はその時間帯街のレストランは開いていませんでした。
仕方なく町中で売っていた肉まんを食べようとしたのですが、一口食べて全部吐き出しました。今まで食べたことのない肉で、なんとも気持ち悪かったのです。
それが何の肉だったかはいまだにわかりませんが、今回のコロナウイルスの記事を見ると、生鮮市場で日本からするととんでもない動物が売られています。
武漢の肉まん、吐き出して本当によかったと思います(笑)
 
武漢は古い街で、ホテルも格式がありそうな古い建物でしたが、しかし全体に薄暗く、幽霊が出そうなところでした。
いまは武漢も近代的にはなっているのでしょうけど、コロナウイルスの発生地になってもおかしくないとは思います。

コロナウイルス

私のブログへのコメントは今まですべて本文に載せていますので、コメント表示をすると重複してしまって見づらいと考え、ブログのデザインを変えたときに、【コメントを表示しない】設定にしていました。そうすると、【コメントをする】ボタンまでなくなってしまって、コメント自体ができなくなっていたようです。すみません。

【コメントをする】ボタンを復旧しました。

 

ブログ『株についてのひとりごと』で書いたのですが、気になる記事がありましたので、ここでもコロナウイルスに関して注意喚起をしておきます。

 

今週の土曜日、つまり1月25日から春節です。

春節の中国人の旅行先人気ナンバー1は日本です。

多くの中国人が日本に来ます。

一気に日本に広まる可能性もあります。気をつけましょう。

下の記事にありますように、現場の医師の肌感覚では、感染規模はもうすでに2003年のSARSを超えているそうです。

 ↓↓↓

 

21日には、武漢市の医師が、次のような意味深のメッセージをアップさせた。

<私は現在、もう2週間も残業づけの日々を送っている。昨日からようやく、世論は少し緊張しだした。だがわれわれが了解している状況は、一般の人々が最悪の事態と考えているものよりも、さらに深刻なのだ。

 鐘南山院士はメディアで、比較的穏当に述べた(1月20日に、かつてSARSと戦った元広州病院長の国家衛生健康委員会・鐘南山院士、84歳が、中央広播電視総体のインタビューに答えた)。だが彼は、武漢に視察に来た後、『直ちに武漢全体を封鎖すべきだ』という意見を述べたのだ。この意見を国務院は否決してしまった。

 私は毎日、大量の発症者と思しき患者を診察している。だが患者の数が多すぎて、とても収容しきれない。何せ隔離病棟は2棟しかないのだ。加えて、医療スタッフの一部も感染し、戦線離脱となってしまったが、その代役もいない。

 今回の新型コロナウイルスの特徴は、2003年のSARSに較べて潜伏期間が長いことだ。平均で9日間もある。しかも微熱だったり、発熱しない患者もいる(私は自分が診察している通りのことを話している)。

 武漢の人口(約1100万人)や、交通の要衝であることを考慮すると、すでに中国全土の都市にあまねく、患者は広がっているはずだ。それを報道するかしないかという問題だ。

 私の個人的な感触では、実際の感染規模は、2003年のSARSをすでに超えている。致死率のデータも曖昧になってしまっているようだ。いまは病毒が、さらに突然変異しないことを願うばかりだ>

 

 

今のところ、感染力はインフルエンザとそれほど変わらないらしく、インフルエンザの予防対策で十分防げるようですので、マスク・うがい・手洗いはした方がいいと思います。

すべてはメンタル

たーぼー (126.182.122.186)  

ショーシャンクさんこんばんは。 まずは私は一つずつステップを踏んでいくべきだと思うんです。泡のように見る状態にしたいんです。 今の状態は、平等と差別がはっきり分かれてしまっていると思うんです。どうしてかと言うと体に気が溜まってないからだと思うんです。ショーシャンクさんが書いてくれたこれが大事だと思います。これが道だと思います。常に心を一定の状態に平静に保ち続ける道。まずこれをしばらくやって様子みます。 あと記憶のdeleteも出来るだけやってみます。 株で一儲けしたいなぁ(笑
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
人生はメンタルがすべてです。
ほとんどの人の人生がうまくいかないのは、ひとつにはとりとめのない想念ばかり出しているからであり、もうひとつは他人にばかり動かされているからです。
この2つはお互いにリンクしています。
とりとめのない想念しか出さないというのは、自分でこの想いを出そうとする『主体的な想い』がないからです。
他人の言ったことや他人の目ばかり気にして右往左往する人は、他人の思惑などどうでもいいという主体的な想念を出すことができません。
 
主体的な想念を出そうと思えば、まずはテレビのつけっぱなしはやめることです。別に見たくもないテレビを眺めているという行為は、その人の思考をとりとめのないものにしてしまいます。テレビは次から次へと、視ている人の興味を引くような話題や映像を流していきます。話題のテーマもめまぐるしく変わっていきます。テレビを受動的に視ている人は、コロコロ変わっていくテーマにごく浅い反応をし続けることになります。深く考える時間など有りません。考えようとすれば全く別の場面に切り替わっています。こうやって、ふわふわとしたとりとめのない想念しか出さない人が大量に増殖していきます。
私はテレビ番組を1分も見ません。ワイドショーもニュースも見ません。テレビのニュースなどスポンサーの意向通りに編集されているものばかりです。
評判になったドラマはアマゾンプライムやDVDBOXで一気に全話見ることはありますが、リアルタイムでは見ません。今年の大河ドラマは一年ぶりにリアルタイムで見るかもしれませんが。
 
今の仏教からは考えられないでしょうけど、歴史上の仏陀=ゴータマ・シッダッタが本当に言いたかったことは、他に依存せず、従属せず、動揺しないことです。自らの主体を確立することです。島を、州を、確立することです。
それが今の仏教では真逆になっています。
 
人生と同じく、株もメンタルがすべてです。
私が勝手に想像しているところでは、株をやっている人の、30%が大負けをして財産の多くを失っていて、40%がそこそこ負けていて、28%がそこそこ勝っているかトントンで、2%の人だけが大勝ちしている感じです。
なぜほとんどの人が負けるか、トントンで勝てないか、というと、主体性がなく相場に振り回されるからです。
暴騰すると焦って買いに殺到し、暴落すると怖ろしくなって売りに殺到します。こういうことを繰り返しているとすべて財産を溶かしてしまいます。
 
環境や目先の現象に振り回されるようなメンタルで人生に臨むと結果は悲惨です。
 

世界は自由に向かう

たーぼー (126.182.122.186)  

ショーシャンクさんおはようございます 私もこの世界はどんどん良い方向に、自由な方向に向かっていると思ってます。 この間ユーチューブで凄い面白い動画を見ました。 第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争空爆を時間を同じにして、どのくらいの激しさだったかという動画だったんですが、明らかに人間の進化を感じさせるものでした。 第二次世界大戦の頃の空爆は、戦闘員、非戦闘員関係なく、空爆場所も軍施設、民間施設関係なく手当たり次第って感じで酷いもんでしたけど、それが朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争と最新の戦争になるにつれ空爆場所を限定し、空爆対象者を限定して、その限定の仕方が厳密に厳しくしていく様がはっきりわかりました。 空爆の頻度が最新の戦争になればなるほど少ないです。 確かアーミテージの発言だったと思いますけど、第二次世界大戦からアメリカが戦争で勝てなくなったのは、空爆に気を使いすぎて徹底的に無慈悲にやらないからだという言葉にも、個人的には酷い発言だと思うんですが冷徹な真理を突いてるなと思いました。 韓国との慰安婦問題にしても、あの当時は日本でも身売りや人身売買などの問題があって、その時代の時代背景も考慮しますと今はいい時代になったなぁと改めて思います。 ですから絶対精神とは唯一意識であり、その本質は自由であり世界はどんどん自由になっていくというのは、私も頷けます。 しかし、一個疑問があるのは歴史とは古代から続いていくわけで、古代は平和だったわけです。 別に国を作る必要もなく、国境さえなく軍隊で守る必要もなかった。 歴史を振り返ってみると、第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、明らかに絶対精神とは逆方向のベクトルが働いている様に思うのですが、これについてはどう考えますか?
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
世界は絶対精神の本質である自由に向かっています。
古代が平和であったというのは幻想です。
人口も増え、文明が発達して兵器も高度化大型化になりましたので、近年になればなるほど戦争は大規模なものにはなっていますが、古代にもむごたらしい争いや戦争はあり、何より、戦争で負けた側の男たちは奴隷となり、女性たちはレイプされたり略奪されたりすることが通常のことになっていました。ユダヤ人もエジプトで奴隷とされていたからモーゼが出エジプトユダヤ人を奴隷の身分から解放したのです。
日本の弥生時代でも『とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている。』というように、古代でもむごたらしい争いはありました。
第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、負けた国の男たちが奴隷になり女性たちが公然と連れ去られるということはありませんでした。部分的に戦争犯罪は起きたとしても。
『自由』という観点からすると、確実に世界は自由に向かっています。
ヒトラーユダヤ人迫害、中国共産党ウイグル人迫害など逆行する動きが出てきたとしても、それらの逆行は大きな流れの中で崩壊していくと思います。
 
 

過去の記憶の束をDeleteすること

たーぼー (126.245.53.6)  

ショーシャンクさんこんばんは。 私は欠乏感で一杯だったから貧乏だったのか(笑 言われてみればそんな感じします。 楽しんでこの世界を創造するっていいですね。 壮大な気持ちになって、小さな事は気にならなくなります。 ショーシャンクさんはまだ精神が常時無量ではないと おっしゃってましたが、具体的にどの位の頻度で無量になりますか? おそらく無量になる時は、性欲が昇華される時だと想像しますが、1日のうちとか1週間のうちとかで頻度(時間)を知りたいです。 無量ではない時は、泡のように見るような状態でしょうか? それとも凡夫のように、自他の分別がはっきりして、世界がはっきりある感じになる時もありますか?
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
私が歴史上の仏陀の真意を探求してきて、仏陀が言っていることは今までの仏教が言っていることと全く違うものだということに愕然としています。
もっとも重要なことがすっぽり抜け落ちています。
それは、中心の成り立ち、自我の成り立ちを徹見することです。自我という中心がどのようにして構築されてきたかを洞察することです。
(実はその洞察こそ十二縁起の本質なのですが、十二縁起の決定的な解釈については自費出版で書くつもりです)
中心の成り立ち、その中心こそ矢です。
その矢には三毒という毒が塗られています。
毒矢です。
その自我と言う中心は記憶の束によって構成されています。
中心があると無量ではありません。
厳密には中心たる記憶の束をdeleteしなければ、無量には達することができません。
もちろん、音楽を聴いたり仏典や聖書などの本を読んだり瞑想したりリラックスしたりするときには意識の広がりは感じます。私もよくあります。しかし、それはまだまだ本当の無量ではありません。一時的な無量気分です。
今までの仏教特に鎌倉仏教以降は唱え言か只管打坐という無思考型瞑想に特化してしまい自我の成り立ちを洞察することや記憶の束を懺悔してdeleteすることがなくなっています。引き寄せの法則やノンデュアリティにも全くありません。
これがないと、潜在意識にどす黒い中心を抱えたまま悟りや目覚め気分に酔ってしまい、その悟り体験がかえって自我を強固に形成してしまう最悪の結果になります。玉城 康四郎博士が座禅や念仏でどうしても消滅せず何十回も元の木阿弥になったと書いた『我塊』がそれです。
往々にして、目覚めたとか見性したとか言っている人の人格が低劣なことがあるのはこういう理由です。
 
キリスト教には懺悔があり、神道には大祓や禊ぎがあります。ホ・オポノポノも記憶をdeleteしていきます。
仏教でも平安時代は、法華懺法が広く行じられていました。これは法華三部経である仏説観普賢菩薩行法経に懺悔の法が説かれているからです。
 
ただ、今の仏教には、上座部仏教にしても大乗仏教にしても、懺悔のようなものがありません。上座部仏教はすっかり、satiを『気づき』と訳してヴィッパサナー瞑想の専門のようになっていますし、大乗仏教では懺悔文はありますが懺悔文というごく短い言葉を唱えるだけです。
 
私は、satiは、『気づき』ではなく、『理法を記憶して心に留めて繰り返し念うこと』と考えています。
 
質問の答えですが、私は、瞑想の時や読経の時、音楽を聴いたりリラックスしているときは意識が広がって無量を感じることはありますが、日常生活で難しい相手との交渉などでは、思考をフルに働かせており無量からは遠ざかります。そういう日常に巻き込まれている時間が大部分ですね。
これには、やはり、記憶の束のdeleteを進めていくことだと考えています。
 
 
 
 
たーぼー (126.199.137.251)  
これには、やはり、記憶の束のdeleteを進めていくことだと考えています。 記憶の束をdeleteしていくためには、高原さんには怒られたけど、その当時の自分の深層心理を洞察して、その思いがその現象になって現れたと瞑想していくしかないと思うんです。 それで手のひらを開いて石を見るという感じで、自分の中で納得して、心の傷を癒していくしかないのではないのでしょうか? その心の傷が矢になっていると思うんです。 どうしてこんな理不尽な出来事が起きたんだろうとか思う事ってありますよね。こんな理不尽な出来事は納得出来ないとか。その傷を癒すべきだと思います。 そうすると、その当時の自分では気づいてなかった依存心とか思いだして、その依存心が現象になって現れたんだなと納得出来て癒されるんです。 でもそうすると、あの子はもうこの世に居なくなってしまうのかなぁとか。。 結局全ては自分が作っていた心の幻影に過ぎないのかなぁと思うと、この世には自分一人しか居ないのかと思って寂しくなります。 こうやってショーシャンクさんに書いているのも、自分自身に書いている様な、まさに独り言を書いている様な寂しい気持ちになります。 ショーシャンクさんは、私の様な体を持った人間なのかなとか(笑 全ては自分が頭でイメージしているに過ぎない。 本当にあるのは、目の前のスマホに写っている文字だけであり、そこから私がイメージを膨らませているに過ぎないです。 ショーシャンクさんは、このように思う事はありませんか?
 
 
中心こそが『矢』なのです。中心を持つことが『苦』なのです。
中心のない、広々とした大海、それこそが本当の自分です。
中心を持っている限り、個である限り、どんなに多くの人に囲まれても寂しさはつきまといます。誰かに寂しさを埋めてくれることを求めれば、それが依存になって、それを失うことが恐怖になります。
そしてそれを失ったときには、一層の寂しさを感じてしまいます。
 
ゆえに、人はただひとりあらねばならないのです。
犀の角のように。
ひとりあるというのは孤立したり孤独になったりすると言うことではなく、誰にも何にも精神的に依存しないということです。
 
私は例えばこのブログで誰かにレスしているときに、その相手が幻想だとは思ったことはないです。日常生活で話すのと同じく、やはり画面の向こうに実在する人間との交流です。それは依存がないときにはじめて楽しむことができるのだと思います。日常でもネットでも依存があれば苦となり、依存がなければ楽しめます。
 
記憶の束をdeleteすることや懺悔と、悔恨、後悔とは違います。
記憶の束をdeleteするとは、記憶の束が私ではない=非我 と徹見することです。私ではないと切っていくことです。記憶喪失になるわけではなく、ただたんに私ではない、本当の私は無限の大海だと観じることです。
本来無限の大海なのに、様々な記憶の束で限定してしまったことを見極め、そのような中心が苦をもたらしていたことを洞察すること、これが懺悔です。
これが進めば進むほど、無限の大海が目の前に現れてくるのだと確信しています。
 
 
ショーシャンクさんこんばんは。 私が思うのは、ショーシャンクさんは創造主ですよね?私も創造主なんです。 そうしたら創造主と創造主がガッチンコしちゃうじゃないですか。 私の創造とショーシャンクさんの創造は違うわけでしょ? 歴史とは絶対精神の自己展開だという言葉のいまいち分からないのもそこです。 私が絶対精神であり、私の自己史の自己展開というなら分かるんです。 でもショーシャンクさんと私の自己史は違うわけでしょ? 学歴も生い立ちも経験も仕事も性格も全部違うわけでしょう? つまり歴史とは私だけではなくて、人類史なわけです。 なんで人類史がこの歴史なのか分からないんです。 何故その時に日本軍は真珠湾を攻撃したのか? 何故世界史はこの歴史なのか?
 
たーぼーさん、こんばんは。
創造主というのは、『私』という中心がない唯一意識のことを言います。中心があるうちは、唯一意識=無限の大海 ではなく、次々に迷妄が作り出されます。中心があれば他の中心とぶつかり合います。それが私たちが経験しているこの世で起っていることです。人と人は争い、国と国とは戦争しています。
ヘーゲルが言った『歴史は絶対精神の自己展開』というのは、そのような迷妄が蔓延りひとりの人が支配し他は全部奴隷状態で自由は全く無いというような状態は歴史上ありましたが、その基盤は絶対精神=唯一意識 であり、絶対精神の本質である自由に向かって流れていく、絶対精神が自己展開していく過程だということです。
ですから、歴史は明らかに自由な方向に向かっているのです。明らかに叡智の方向に向かっています。
もちろん、どんどん悪い世の中に向かっていると思い込んでいる人たちはいっぱいいます。ほとんどのメディアはその論調です。しかし、世界史を見れば、明らかに自由に向かっていっています。100年前、500年前、1000年前、2000年前と今を比べてみてください。
確実に、絶対精神の本質である自由に向かって流れています。部分的に逆流していると見えるところがあったとしても、川全体の大きな流れは海に向かって流れています。
日本では特にネガティブに見る人が多く、凶悪犯罪も年々増え続けていると思い込んでいる人もいますが、凶悪犯罪、そしてすべての犯罪件数はどんどん減っているのです。
日本でも、宗教例えばキリスト教を信じていたら死罪になったときがありましたが、いまは何を信じていようがそれで死罪になることはありません。その当時の先進国トップのイギリスでも、同性愛というだけで牢獄に入れられたりすることがありましたが、いまはそういうことはありません。
 
質問の答えですが、もちろん個々、学歴や職歴などの経歴も経験も性格も違います。そのような経歴を記憶の束として自分だと思い込んでいます。しかし、仏陀の教説では、そのようなものは『私ではない』のです。私もまだまだdeleteし尽くしていないのですが、方向性としては無限の大海に向かっていると確信できています。
 

欲望と執着

たーぼー (126.245.53.6)  

ショーシャンクさんこんばんは。
いやーショーシャンクさんの投稿はいつも元気が出ます。ありがとうございます。
ところで一つ以前から聞きたい事があったんですが、ちょっと失礼かなと思って聞けなかったのですが、株で儲けて会社の借金を返済するとか、それ以上に欲望を持つことをショーシャンクさんは肯定されていますよね? 最近仏陀のスッタニパータを読んでいるんですが、禅だけではなく、仏陀も欲望を諌めることをしつこく説いています。私は別に非難するつもりではなくて、別に犯罪ではないですし、株で儲けても全然問題ないと思ってますが、ちょっとショーシャンクさんの中でどういう風に正当化されているのかと思いまして。 最近私もこの世は夢みたいなもんだから、どうせ見るならいい夢みたいなと思い始めていて、あぁショーシャンクさんの様な生き方がいいなぁと思ってます。 だからショーシャンクさんが仏教の欲望否定的なストイックな部分と、世俗での生き方の内部でどうバランスをとっているのか興味あります。
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
 
欲望は欠乏感から生じます。
執着は、精神が一点に固定化してしまうことです。
どちらも、無量から離れたことが原因で生じます。
 
精神が無量であれば、無量が現象に現れてくるのです。無量が現象に現れてこないうちはその人の精神は無量にはなっていないのです。
 
ほとんどすべての人は、欠乏感からその欠乏したものを喉の渇いた旅人が水を求めるように渇望します。これが欲望です。
ですから、人は『限定品』と煽られれば欲しくなってしまうのです。
同じものでも、在庫が腐るほど有ったときには欲しくもなかったものが、行列ができて残りわずかとなったときには欲しくなるものです。
それは欠乏感から来ています。
 
欲望を持つ人は貧乏なままです。欠乏感ばかりを出しているから。
無量の富を引き寄せる人は、欠乏感を持たず欲望を持たず無量感を持ち『夢』を持ちます。
『夢』は欠乏感から生じるものではなく、画家が白いキャンバスに思い通りの絵を描くようなものです。
それは解放であり、『遊び』です。そこに欠乏感は存在しません。楽しんで創造していく感じです。
 
お金や富は自由の象徴です。お金は時間的空間的な自由を与えてくれます。
この世をよくするパワーにもなります。
 
祇園精舎が寄進されたためにサンガは発展できました。雨安居に修行に専念できるようになりました。今残っている仏典には祇園精舎で説かれたものが非常に多いです。
祇園精舎は、給孤独長者が祇陀太子の園林を金貨を敷き詰めて買って仏陀に寄進したものです。
無量の富があったから、給孤独長者は身寄りのない人たちに施すことができましたし、仏陀祇園精舎を寄進することができたのです。
お金はあればあるほどいいのです。
 
しかし、持つことによって、それを執着としてしまえば、途端に無量の状態から転落し精神は一点に固定化され限定されたものとなります。急にお金ができた人が傲慢になり驕ってしまって転落の人生になってしまうのはそのせいです。
 
私は今死んでも、財産が何億あろうと『惜しい』とも『もっと使っておけばよかった』とも思いません。お金は生きている間だけ自由をもたらしてくれるものだと考えていますし、それへの執着はありません。
 
私はまだ精神が無量になっていないので、富も無量ではありません。無量に近づけば、給孤独長者のような生き方が理想です。
 
 仏陀が執着を捨てろというのは、執着が無量から離れさせ苦の集積へと向かわせるからです。
そして、仏陀が言っているように、欲望は実に甘美であり人を溺れさせるものです。特に欠乏感を伴うと欲望は何十倍にもなります。
 
芥川龍之介の『芋粥』は知っていますか。ある貧乏な人が芋粥が大好きで、しかし芋粥は高価なものなのでなかなか食べることができない、一度でいいから芋粥を腹一杯食べたいと強烈な欲望を抱きます。それを聞いた裕福な人が芋粥を有り余るほど用意して食べさせようとするのですが、そのときになるとなぜか全く芋粥が欲しくなくなったと言う筋です。
 
これこそが欲望のメカニズムです。欲望の大部分を占めるのは欠乏感です。
ありあまるものには欲望は起きないのです。
 
欠乏感を除去し、無量感を抱くようになれば、人間を苦に追いやる欲望や執着はなくなり、あっても生存に必要なものだけに整えられていきます。
食べ物の好き嫌いも全くなくなっていきます。身体の健康維持に必要なものだけを取るようになります。
 
今までの仏教や宗教で間違っていたのは、欲望は悪いと教えられてきて、欲望をなくそうとしたからです。欲望は抑圧したり制限したり減らそうと努力したりすると、逆に何十倍にも膨らんできます。
欠乏感が膨張するからです。
 
 

俯瞰して見る

たーぼー (126.245.53.6)  

ショーシャンクさんこんばんは。 しかし、少しずつ、意識が広がって、この世を固定したものでなく泡のように見ることができはじめると、エネルギーが引き裂かれることがなくなってきます。 言い換えると、『俯瞰して見る』ということになるかもしれません。 今は出来ていないですが、私この泡のような感じよくわかるんです。 解脱前の感じではないでしょうか? 一方で以前のショーシャンクさんの投稿で、禅にも意識レベルの高い人はいると思いますとか、後は私の好きな池田晶子さんも使っていた魂の傾向性という言葉をショーシャンクさんも使っていました。 禅だと大悟徹底した境地とは、「柳は緑、花は紅」という非常にくっきりはっきりした境地のようです。 目は横鼻は縦というような、はっきりくっきりした感じらしいのですが、何かよく分からなくて、これって魂の傾向性なんでしょうか?
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
禅は私も好きで、高校時代から禅の本はよく読んでいました。『臨済録』や『正法眼蔵』、あるいは、『碧巌録』や『無門関』を解説した本など、どれも好きでした。
禅では、臨済が飛び抜けていると思いますし、後世、臨済の法流のものばかりが繁栄していき中国の禅界のほとんどが臨済の影響下にあるくらいまでになりました。
この臨済と同格なのは趙州で、臨済よりひょっとすると上なのは、長沙と普化かなと思っています。
 
ただ、仏陀の真意を探求していてその全体像が分かるようになると、禅の危険性も感じます。禅のような無思考型の瞑想は、確かに坐禅している40分ほどは思考が少なくなり、それを長期間続けると、ある時に意識から思考の制限がなくなり、悟った気分になることはあると思います。しかし、日常生活に戻ると、思考というのは必要不可欠ですから、元の木阿弥です。その悟った体験を記憶として持ち続けて『自分は悟った』と言ってむしろそれが自我を形成してしまう人が非常に多いように思えます。禅をやったばかりに人格が悪くなる人もいるでしょう。
奇抜な『二元対立を超越したような言葉』を吐いては悦に入るような人が出てきます。
 
道元は、宋から帰った時、『眼横鼻直なのがわかった』と言いました。
禅ではよく『柳は緑 花は紅』という言葉を使います。
私に言わせれば、『それがどうした?』という感じです。
仏陀はそのようには見ないでしょうね。眼も鼻も柳も花も生滅するもの、変滅するものとして見るでしょう。
 
私は、柳は緑、花は紅とくっきり見るより、その境界がなくなるようなそのような世界観の方が好きですね。
 
 
たーぼー (126.245.53.6)  
ショーシャンクさんこんばんは。 今日いつも通りトラックの仕事が終わって、スマホで私の大好きな長渕の歌を聴いたら昭和という曲でした。ちょっと歌詞を見て下さい。ユーチューブに歌の動画があるので良ければ見て下さい。 昭和 作詞:長渕剛 作曲:長渕剛 傷つけば傷つくほど優しくなれた 貧しさは大きな力になり 意気地のなさは勇気に変わる ひねた瞳は真実を欲しがる 真実はとてつもなく激しかった 愛せば愛するほど苦しくなる はかなさが美しいから 死にたくてもまた歩いた 俺はいま真夜中の湾岸をとばしている カーラジオ消して受話器を耳にかたむける 進路は東へとお前の声を聞きながら走る とうとう昭和の歴史が終わった 悲しめば悲しむほど想いやれた 悔しさは大きな力になり 力はいつしか詩になる 許せないのは自分となる 俺はいま受話器を静かに置いた あゝ吹きすさぶ強く冷たい風に抱かれたい 夜明け前の街が確かに動き始めてる とうとう昭和の歴史が終わった 夜明け前の街が確かに動き始めてる とうとう昭和の歴史が終わった 私はショーシャンクさんの書いていた四無量心という言葉が浮かんで、トラック運転しながら涙腺が緩んでしまいました。
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
人は音楽を聴くと何故感動するのでしょうか。もちろん様々な理由はあるでしょうけど、その時に俯瞰して見ることができるからではないかと思います。
自分の過去、記憶、思い出を俯瞰して見る、この世のあり様を俯瞰して見るような意識状態になることができた時に感動するのだと思います。
日常生活に巻き込まれているときには、その次元で快楽や苦痛を経験します。そしてその経験に巻き込まれていて俯瞰できない状況です。
音楽を聴く時、日常の感覚を離れ少しの間俯瞰して見るような感覚になることがあります。そのときに、すべては美しい泡のように見えるのかもしれません。
 
映画『フラッシュダンス』の主題歌『What a Feeling』にあるように、
この世界は日常の感覚で見ると、『鋼鉄と石で作られた変えられない強固なもの』と見えてしまいます。
しかし、俯瞰して見れば、この世は泡のように変えやすいものです。臨済もそう言っています。
 
 
 
   我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無

三界唯心、万法唯識なり

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん

唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず水に入って溺れず

三途地獄に入るも

園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず

何に縁ってか此の如くなる

嫌う底の法無ければなり

 

 

 

大徳、四大色身は是れ無常なり

乃至、脾胃肝胆、髪毛爪歯も、唯だ諸法の空相を見る

汝が一念心の歇得する処、喚んで菩提樹と作す

汝が一念心の歇得すること能わざる処、喚んで無明樹と作す

無明は住処なく、無明は始終なし

汝若し念念心歇不得ならば、便ち他(か)の無明樹に上り

便ち六道四生に入って、披毛戴角せん

汝若し歇得せば、便ち是れ清浄身界なり

汝一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化し

意生化身して、法喜禅悦し、身光自ら照らさん

衣を思えば 羅綺千重、衣を思えば、百味具足して、更に横病なし

 菩提には住処無し、是の故に得る者無し

道流、大丈夫の漢、更に箇の什麼をか疑わん

目前の用処、更に是れ阿誰そ

把得して便ち用いて名字に著すること莫きを、号して玄旨と為す

与麼に見得せば、嫌う底の法勿し

古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり

流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し、と

 

 

 

汝が一念心の疑、地に来たり礙えらる

汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる

汝が一念心の瞋、火に来たり焼かる

汝が一念心の喜、風に来たり飄えさる

若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん

東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没

水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん

何に縁ってか此の如くなる

四大の如夢如幻に達するが為の故なり

道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん

 

 

 ここで臨済は、四大(地水火風というこの世を構成する要素)が夢や幻のようであるという意識に到達すれば、水を踏むことも地を踏むようにすることができるとまで言っています。凄い全能感ですね。
 
 
それにしても、映画『フラッシュダンス』の主題歌『What a Feeling』の字幕版の訳は本当にいいですね。英語の原文からこのように訳すのはなかなかできません。屈指の名訳だと思います。
 
私は独り 涙を流す
誇りに満ちた 静かな涙を
鋼と石でつくられた 孤独な世界で
 
このフィーリング
人生を信じて ステップ踏めば 世界は私のもの
情熱に燃えて 夢を捨てずに
ステップを踏めば 人生は光り輝く
 
 

泡のように見る

たーぼー (126.193.86.51)  

新年明けましておめでとうございます⛩ かなり久しぶりに書き込みます。 時々はこのサイトは拝読させてもらってたのですが、何故か書き込む気持ちになれなくて、読んでおしまいにしていました。 ショーシャンクさんの書き込みを見ていると、いつも不思議な感じになります。 実在するのは唯一の意識だけであり、この現象全てはその実在が見ている夢であると確信を持っている一方で、株や世界情勢など世俗に関わる話も自然にやっていて面白いなといつも思っています。 私はそこが上手く出来なくて、形而下の話をするとその話にのめり込んでしまい、全ては虚偽だと言うことも忘れて熱くなったり、形而上の話を始めるともう世俗の話なんぞどうでも良くなってニュースも見なくなります(笑 バランスが上手く取れないというのか、何かコツがあるのでしょうか?
 
 
明けましておめでとうございます。
確かに、私も、精神世界の方にどっぷり浸かって、この世の価値を感じ取れないときもありました。そういうときは非常に中途半端なのです。つまり、精神世界に行っているわけでもなく、この世を十全に生きているわけでもなく、宙ぶらりんでエネルギーがどちらにも発揮されない状態です。
しかし、少しずつ、意識が広がって、この世を固定したものでなく泡のように見ることができはじめると、エネルギーが引き裂かれることがなくなってきます。
言い換えると、『俯瞰して見る』ということになるかもしれません。
 
この見方は、この世に対処するためには非常に役に立ちます。
意識が広がり、俯瞰して見るようになり、この世が泡のように見え始めたら、ただの気の流れのように感じます。
この、気の流れを感じることができれば、世界や時代の流れをほんの少し感じ取ることができます。これは事業をしていても、株などの投資をしていても、いろいろな決断に非常に役立ちます。
また、俯瞰してみることができると、人との交渉などは上手になります。
自分の精神だけが主体だと思えるようになりますから、人にどのように悪く思われてもあまり気にならなくなり、こちらの最大利益が得られるように交渉を進めることができます。自分がどう思われるかばかり気にする人はそこが弱みとなって下手な交渉しかできません。
 
臨済のように、自分の精神だけが絶対の主体だと思えるようになれば、この世の対処も矛盾なくうまくいくと思います。
 
精神が無量であれば、目の前に現れる現象も無量になるはずであり、富も無量であるのが本当です。
 
刻々と変化する国際情勢も、あるいは歴史を見ても、すべて気の流れということがわかれば、面白くて仕方なくなります。
 
 
たーぼー (126.193.86.51)  
返信ありがとうございます。 ちょっとショーシャンクさんの十二縁起の無明からの説明をもう一度してもらえないでしょうか? 仏教コーナーの方がいいですかね。 無明は形成する意思でしたね。 出来るだけ平易な言葉を使ってもらえると助かります。 なんて言っても学がないので、難しい文章が読めないのです(涙) お時間空いた時でもよろしくお願いします。
 
わかりました。それでは、ブログ『仏教についてのひとりごと』に質問してください。まとまった時間があるときに書きますね。

2020年

明けましておめでとうございます。

2020年が始まりました。

今年は非常に大きな転換点の年だと思っています。

自分にとっても世界にとっても。

今年の7月以降、世界は大きく動きそうな気がします。

世界にとっても自分にとっても、生まれ変わる年、または生まれ変わらなければならない年になるでしょう。

 

私の今年の抱負は、ライフワークに専念すること、です。

私のライフワークは、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか?』を探求することです。

そして、去年までで、歴史上の仏陀ゴータマ・シッダッタ)が本当は何を言いたかったのか、そして仏陀の死後その真意がどういう理由で隠れていったのか、どうして大乗仏教は興ったのか、なぜ仏陀の死後数百年も経ってから新たに膨大な大乗仏典を創り上げなければならなかったのか、そういうことがかなりわかってきました。

去年までは、興味分野が多岐にわたっていましたが、今年はライフワークに専念して行きたいと思います。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

 

id:mariy22  

新年 あけましておめでとうございます。 穏やかな暖かい新年を過ごしてます。 庭に出てみると野鳥のメジロが熟した柿の実をついばんで田舎らしい風景に見入っております。 平和ですね。 今年はオリンピック アメリカ大統領選挙のビッグイベント 、happeningで世界情勢の心配事 大きな災害が起こるかも知れません。 この一年が平和でありますように。 ショーシャンクさんから今年も沢山の事学び知識を深めていきたいです。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
明けましておめでとうございます。
今年は、米大統領選もありますし、大きなことが起りそうな気がします。
年が明けてしばらくは米中も合意すると言うことで世界的に安心感が盛り上がるでしょうけど、米大統領選に近づくころには中国は相当敵対的な行動をしてくるはずです。
世界が激変する可能性があります。
ただ、変化はチャンスですし、いい年にしていきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。
 
 
id:owl22  
明けましておめでとうございます。 朝は特に寒くなりましたね。それでも、光は春をはらみ、日の入りは1分ごとのびています。パンジーなど夜の寒さに耐え縮んだ葉が、陽の光を浴びてフワッと解放されるという、その様子がたまらなくかわいいです。今日はクリスマスローズにかわいい花芽を発見しましてうれしくなりました。 世界に目を向けると、イラン司令官殺害で、米・中東情勢が緊迫してきましたね。中国も北朝鮮も、なんでもありで不可解過ぎます。 以前「月から地球の騒乱を見降ろしたい」ということを投稿したら、ショーシャンクさんにほめていただいたことを、何だか恥ずかしくもあったのですが、とてもとても天に舞いあがるほどうれしかったのを覚えています。まだよくできていないのですが、物事を俯瞰して見るように がんばってみます。 2020年、良い年になりますように。(2は一番好きな数字です。) 今年もどうぞよろしくお願いいたします
 
 
明けましておめでとうございます。
冬至から夏至への期間は、陰の極から陽の極に向かう上向きの期間ですから日に日に明るくなっていきますね。1月2月は寒い中にも明るさを感じてとても好きな月です。
物事に巻き込まれず俯瞰して観ることは本当に大切だと思います。私もできていませんが、状況や環境に巻き込まれず俯瞰して観る視点さえあれば、すべてが泡のように見えてくるのでしょう。すべてが美しく見えてくるのかも知れません。
 
今年後半は戦争、特に中国と米国との間の軍事衝突まで考えていますが、正月早々中東で戦争の気配ですね。
歴史的に見ても大きな節目の年になりそうな雰囲気です。
新しい時代になりつつあるのかも知れません。
今年がいい年でありますように。
今年もよろしくお願いいたします。
 
 
マグノリア (219.62.234.179)  
あけましておめでとうございます。 元旦からお天気にも恵まれて、明るい年の初めとなりました。 世界中からは次々と混沌とした情報が入ってきますが、それも今は遠い潮騒のようでまだ現実感がありません。 最近、W.H.オーデンの「1939年9月1日」という詩を知りました。 人間は変わらないものですね。 何があっても、死ぬまでは生きていくしかありません。 それだけです。 せめて美しいものを求めて。 良き一日が続きますように。
 
明けましておめでとうございます。私は、今年は、世界を悪くしてきた体制が崩壊する初めの年になるのではないかと思っています。今年から世界が生まれ変わっていくのではないかと。そして今年後半(7月以降)に戦争が起きるのではないかと思っていますが、新年早々、アメリカとイランの間が大変なことになっています。でも日本は平和な新年を迎えています。7月以降、米大統領選の前に、中国が台湾に侵攻して中国とアメリカが軍事衝突することになっても日本は平和でしょう。イランなどの中東で起きている反政府デモも日本では起きません。世界を見ても、平和な時、平和な場所というのは貴重なものだと痛感します。この、何があっても平和な空間にいることを感謝して、平和な時間を無駄にしないように生きようと思っています。
今年がいい年でありますように。
 

 

大晦日

id:mariy22  

ショーシャンクさん 今年も御世話になり有難うございました。 ショーシャンクさんから、沢山勉強させて頂き知識を得ることが出来ました。 来年もどうぞ宜しくお願い致します。 来る年がいい年になりますように!! 良い年をお迎えください。
 
 
今日で今年も終わりですね。
まりさん、今年もありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
来年がいい年でありますように。
よい年をお迎えください。
 
 
マグノリア (219.62.234.179)  
ショーシャンクさん こんにちは。 令和元年もあと数時間になりました。 今年もこちらでショーシャンクさんやみなさんから、 多くのことを学び、新たな指標となる機会をも与えられました。 ありがとうございました。 来年もまたよろしくお願いいたします。 新年が平和で穏やかな一年となりますように どうぞ良いお年をお迎えください。
 
マグノリアさん、こんばんは。
今年もありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
新年が平和な一年になりますように。
よい年をお迎えください。
 
id:owl22  
ショーシャンクさん、2019年令和元年も、あと12時間弱で終わろうとしていますね。 現象に左右されがちな私ですが、ショーシャンクさんの言葉を超えたものが、私の中に届き、魂を震わせる瞬間がここではあり、それはとても美しく幸せな1年でした。本当にありがとうございました。 新たな年が、どうぞ幸せな良き年となりますように。
 
 
owlさん、今年もありがとうござました。
来年もよろしくお願いいたします。
来年も美しく幸せな一年になりますように。
よい年をお迎えください。
 
 
今日は、大晦日と言うことで、地元の神社に参拝してきました。
神社と言えば正月の初詣ですが、神道からすると実はもっと重要なのは大晦日の年越の大祓だと思います。6月30日の夏越の大祓とともに、半年間に溜まった穢れを祓う行事です。
正月3が日には大混雑する神社ですが、大晦日の今日は参拝客はまばらでした。それにしても、大祓祝詞は長いので、唱えている間に何人もの人が次々参拝されていて、その場所を独占しているのが迷惑かとも思いましたが。
それでも初詣のときは大混雑で短い祓詞を唱えるのでも肩身が狭いので大祓祝詞を唱えられるのはありがたいことです。ここ数年は、初詣より大晦日の年越大祓のほうを重要視してます。
 
 
このブログを読んでくださった皆さん、このブログに書き込んでくださった皆さん、また、私の他のブログにコメントしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
 
皆様にとって来年が幸せな一年になりますように。

旧約聖書詩編22編

旧約聖書詩編22編にはこうあります。

 

1   【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2   わたしの神よ、わたしの神よ
  なぜわたしをお見捨てになるのか。
  なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
  呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3  わたしの神よ
  昼は、呼び求めても答えてくださらない。
  夜も、黙ることをお許しにならない。
 
4  だがあなたは、聖所にいまし
  イスラエルの賛美を受ける方。
5  わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
  依り頼んで、救われて来た。
6  助けを求めてあなたに叫び、救い出され
  あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
 
7  わたしは虫けら、とても人とはいえない。
  人間の屑、民の恥。
8  わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
  唇を突き出し、頭を振る。
9 「主に頼んで救ってもらうがよい。
  主が愛しておられるなら
  助けてくださるだろう。」
 
10 わたしを母の胎から取り出し
  その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
11 母がわたしをみごもったときから
  わたしはあなたにすがってきました。
  母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
12 わたしを遠く離れないでください
  苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
 
13 雄牛が群がってわたしを囲み
  バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14 餌食を前にした獅子のようにうなり
  牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15 わたしは水となって注ぎ出され
  骨はことごとくはずれ
  心は胸の中で蝋のように溶ける。
16 口は渇いて素焼きのかけらとなり
  舌は上顎にはり付く。
  あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
 
17 犬どもがわたしを取り囲み
  さいなむ者が群がってわたしを囲み
  獅子のようにわたしの手足を砕く。
18 骨が数えられる程になったわたしのからだを
  彼らはさらしものにして眺め
19 わたしの着物を分け
  衣を取ろうとしてくじを引く。
 
20 主よ、あなただけは
  わたしを遠く離れないでください。
  わたしの力の神よ
  今すぐにわたしを助けてください。
21 わたしの魂を剣から救い出し
  わたしの身を犬どもから救い出してください。
22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い
  わたしに答えてください。
 
23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
  集会の中であなたを賛美します。
24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
  ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
  イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
 
25 主は貧しい人の苦しみを
  決して侮らず、さげすまれません。
  御顔を隠すことなく
  助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26 それゆえ、わたしは大いなる集会で
  あなたに賛美をささげ
  神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27 貧しい人は食べて満ち足り
  主を尋ね求める人は主を賛美します。
  いつまでも健やかな命が与えられますように。
 
28 地の果てまで
  すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
  国々の民が御前にひれ伏しますように。
29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく
  主にひれ伏し
  塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
 
  わたしの魂は必ず命を得
31-32 子孫は神に仕え
  主のことを来るべき代に語り伝え
  成し遂げてくださった恵みの御業を
  民の末に告げ知らせるでしょう。
 
 
ここに書かれている預言を実現するために
 
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
                      マタイによる福音書/ 27章 46節
 
 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
                      マルコによる福音書/ 15章 34節
と叫ばれたのだと思います。
また、『口は渇く』も『わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。』もイエス・キリストの十字架によって実現しました。

いちじくの木の呪いについて

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ショーシャンクさん こんばんは  merry Christmas 今日はクリスマス イエスキリストについて知らないことばかりです。 イチジクの木は聖なる木なんでしょうか? アダムとイヴでもイチジクの葉が出てきます。 イチジクの木の呪い・・イエスが実を食べる事がないようにイチジクの木が枯れしてしまう。 私も考えてみました。 何か念ずるとそれが念ずるようになってしまうということかな~~ きっとショーシャンクさんのお考えと違いますよね! どうしてクリスマスツリーを飾るようになったのでしょう? サンタクロースはどこから? クリスマスソングを聴くとどうしてワクワクする? なんて初歩的な疑問にぶつかってきました。 クリスマスはイエスの生誕の日だけの知識しかありませんでした。 子供の時はサンタクロースがプレゼントを持ってくると信じてましたから。 メルヘンティックで今はクリスマスのイルミネーションがあちこち イエスキリストについて考える事全く皆無でした。 クリスマスソング イエスキリストについて ご教授ありがとうございます。 皆様に幸せの星が降り注ぎますように!!
 
 
まりさん、おはようございます。
クリスマスツリーを飾る風習自体は数百年前ドイツで、それがドイツ以外に広まったのは百何十年か前からで新しい習慣だと思います。常緑樹のもみの木が三角形に見えるのがいいらしいです。
 
イチジクの実は、砂漠が多いイスラエルの地では昔から大切にされ親しまれていたのではないかと思います。水分とともに、今のように甘いものにあふれていない時代には甘い実は貴重なものだったでしょう。
 
聖書に対する昔からの疑問の中で唯一解けていないのが、イチジクの木の呪いの話です。
 
キリスト教者のブログで、この話は、いちじくの木をイスラエルの民の象徴だと解釈しているものがありました。次のようなものです。
 

「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。」

イスラエルでは、いちじくの木は、よく見かける木です。いちじくは、3月に緑の実を付け始めます。これも食用になり、農夫がよく食べたそうです。4月になると、葉を茂らせます。過越の祭りは3〜4月ですから、きょうの箇所はこの時期にあたります。そして、5月末〜6月に、緑の実は熟します。これが夏いちじくです。その年の新しい枝に付いた実が熟すのはそのあと、これが秋いちじくです。収穫の終わりは8月末です。春先に緑の実が付かない年は、いちじくは不作です。

■いちじく=約束の地の代表的な産物のひとつ

申命記8:8「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地」

いちじくの木に実はなかった

このいちじくの木は、遠くから見ても目立つほど、葉を茂らせていました。いちじくが熟する季節ではないので、熟した実がないのは当然です。イエスが期待したのは、農夫たちが食用にする緑の実でした。しかし、この木にはそれすらなかったのです。

このいちじくの木は、この時代のイスラエルの民の象徴です。外面は繁栄していますが、内面は実を付けていません。そして、特に当時の指導者たちの特徴は、宗教的偽善です。このあとに続いて起こる出来事、イエスによる神殿の清めは、宗教的偽善に対する神の怒りを示す出来事です。

※※※※※

 

しかし、この説明ではどうも釈然としません。

聖書ではこうあります。

 

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

                     マルコによる福音書/ 11章 12節~

 

 

このいちじくの木は、実のなる季節ではなかったから実をつけていませんでした。

だけど、木に向かって『今後おまえから実を食べる者がないように』と言うと、その木は枯れてしまった、ということです。

そして、この出来事を解説して、イエスは言います。

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と。

 

もし、このいちじくの木をイスラエルの民の象徴として、これから実がならずに枯れることを喩えたのだとしたら、『だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と言う言葉をその解説とはしないはずです。

 

山に向かって海に飛び込めと言ったらそうなるのであれば、いちじくの木に対しても、実がなるように言ったらすぐ実がなるはずです。5000人分以上のパンや魚を一瞬で現出させた人なのですから。

なぜ、いちじくの木を枯らさなければならなかったのか、この一点だけはどうしてもわかりません。