武漢肺炎
武漢新型肺炎 突然意識がなくなり バタンと倒れる人が急増|新型肺炎|新型コロナウイルス|中国NOW
麒麟がくる
武漢
コロナウイルス
私のブログへのコメントは今まですべて本文に載せていますので、コメント表示をすると重複してしまって見づらいと考え、ブログのデザインを変えたときに、【コメントを表示しない】設定にしていました。そうすると、【コメントをする】ボタンまでなくなってしまって、コメント自体ができなくなっていたようです。すみません。
【コメントをする】ボタンを復旧しました。
ブログ『株についてのひとりごと』で書いたのですが、気になる記事がありましたので、ここでもコロナウイルスに関して注意喚起をしておきます。
今週の土曜日、つまり1月25日から春節です。
春節の中国人の旅行先人気ナンバー1は日本です。
多くの中国人が日本に来ます。
一気に日本に広まる可能性もあります。気をつけましょう。
下の記事にありますように、現場の医師の肌感覚では、感染規模はもうすでに2003年のSARSを超えているそうです。
↓↓↓
21日には、武漢市の医師が、次のような意味深のメッセージをアップさせた。
<私は現在、もう2週間も残業づけの日々を送っている。昨日からようやく、世論は少し緊張しだした。だがわれわれが了解している状況は、一般の人々が最悪の事態と考えているものよりも、さらに深刻なのだ。
鐘南山院士はメディアで、比較的穏当に述べた(1月20日に、かつてSARSと戦った元広州病院長の国家衛生健康委員会・鐘南山院士、84歳が、中央広播電視総体のインタビューに答えた)。だが彼は、武漢に視察に来た後、『直ちに武漢全体を封鎖すべきだ』という意見を述べたのだ。この意見を国務院は否決してしまった。
私は毎日、大量の発症者と思しき患者を診察している。だが患者の数が多すぎて、とても収容しきれない。何せ隔離病棟は2棟しかないのだ。加えて、医療スタッフの一部も感染し、戦線離脱となってしまったが、その代役もいない。
今回の新型コロナウイルスの特徴は、2003年のSARSに較べて潜伏期間が長いことだ。平均で9日間もある。しかも微熱だったり、発熱しない患者もいる(私は自分が診察している通りのことを話している)。
武漢の人口(約1100万人)や、交通の要衝であることを考慮すると、すでに中国全土の都市にあまねく、患者は広がっているはずだ。それを報道するかしないかという問題だ。
私の個人的な感触では、実際の感染規模は、2003年のSARSをすでに超えている。致死率のデータも曖昧になってしまっているようだ。いまは病毒が、さらに突然変異しないことを願うばかりだ>
今のところ、感染力はインフルエンザとそれほど変わらないらしく、インフルエンザの予防対策で十分防げるようですので、マスク・うがい・手洗いはした方がいいと思います。
すべてはメンタル
世界は自由に向かう
過去の記憶の束をDeleteすること
欲望と執着
俯瞰して見る
三界唯心、万法唯識なり。
所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん。
唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず水に入って溺れず、
三途地獄に入るも、
園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。
何に縁ってか此の如くなる。
嫌う底の法無ければなり。
大徳、四大色身は是れ無常なり。
乃至、脾胃肝胆、髪毛爪歯も、唯だ諸法の空相を見る。
汝が一念心の歇得する処、喚んで菩提樹と作す。
汝が一念心の歇得すること能わざる処、喚んで無明樹と作す。
無明は住処なく、無明は始終なし。
汝若し念念心歇不得ならば、便ち他(か)の無明樹に上り、
便ち六道四生に入って、披毛戴角せん。
汝若し歇得せば、便ち是れ清浄身界なり。
汝一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化し、
意生化身して、法喜禅悦し、身光自ら照らさん。
衣を思えば 羅綺千重、衣を思えば、百味具足して、更に横病なし。
菩提には住処無し、是の故に得る者無し。
道流、大丈夫の漢、更に箇の什麼をか疑わん。
目前の用処、更に是れ阿誰そ。
把得して便ち用いて名字に著すること莫きを、号して玄旨と為す。
与麼に見得せば、嫌う底の法勿し。
古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。
流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し、と。
汝が一念心の疑、地に来たり礙えらる。
汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる。
汝が一念心の瞋、火に来たり焼かる。
汝が一念心の喜、風に来たり飄えさる。
若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。
東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、
水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。
何に縁ってか此の如くなる。
四大の如夢如幻に達するが為の故なり。
道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。
若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん
泡のように見る
2020年
明けましておめでとうございます。
2020年が始まりました。
今年は非常に大きな転換点の年だと思っています。
自分にとっても世界にとっても。
今年の7月以降、世界は大きく動きそうな気がします。
世界にとっても自分にとっても、生まれ変わる年、または生まれ変わらなければならない年になるでしょう。
私の今年の抱負は、ライフワークに専念すること、です。
私のライフワークは、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか?』を探求することです。
そして、去年までで、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が本当は何を言いたかったのか、そして仏陀の死後その真意がどういう理由で隠れていったのか、どうして大乗仏教は興ったのか、なぜ仏陀の死後数百年も経ってから新たに膨大な大乗仏典を創り上げなければならなかったのか、そういうことがかなりわかってきました。
去年までは、興味分野が多岐にわたっていましたが、今年はライフワークに専念して行きたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。
大晦日
旧約聖書詩編22編
1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
いちじくの木の呪いについて
「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。」
イスラエルでは、いちじくの木は、よく見かける木です。いちじくは、3月に緑の実を付け始めます。これも食用になり、農夫がよく食べたそうです。4月になると、葉を茂らせます。過越の祭りは3〜4月ですから、きょうの箇所はこの時期にあたります。そして、5月末〜6月に、緑の実は熟します。これが夏いちじくです。その年の新しい枝に付いた実が熟すのはそのあと、これが秋いちじくです。収穫の終わりは8月末です。春先に緑の実が付かない年は、いちじくは不作です。
■いちじく=約束の地の代表的な産物のひとつ
申命記8:8「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地」
■いちじくの木に実はなかった
このいちじくの木は、遠くから見ても目立つほど、葉を茂らせていました。いちじくが熟する季節ではないので、熟した実がないのは当然です。イエスが期待したのは、農夫たちが食用にする緑の実でした。しかし、この木にはそれすらなかったのです。
このいちじくの木は、この時代のイスラエルの民の象徴です。外面は繁栄していますが、内面は実を付けていません。そして、特に当時の指導者たちの特徴は、宗教的偽善です。このあとに続いて起こる出来事、イエスによる神殿の清めは、宗教的偽善に対する神の怒りを示す出来事です。
※※※※※
しかし、この説明ではどうも釈然としません。
聖書ではこうあります。
マルコによる福音書/ 11章 12節~
このいちじくの木は、実のなる季節ではなかったから実をつけていませんでした。
だけど、木に向かって『今後おまえから実を食べる者がないように』と言うと、その木は枯れてしまった、ということです。
そして、この出来事を解説して、イエスは言います。
『だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と。
もし、このいちじくの木をイスラエルの民の象徴として、これから実がならずに枯れることを喩えたのだとしたら、『だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と言う言葉をその解説とはしないはずです。
山に向かって海に飛び込めと言ったらそうなるのであれば、いちじくの木に対しても、実がなるように言ったらすぐ実がなるはずです。5000人分以上のパンや魚を一瞬で現出させた人なのですから。
なぜ、いちじくの木を枯らさなければならなかったのか、この一点だけはどうしてもわかりません。