シラーの詩

第九の第4楽章は、シラーの詩に曲を付けたものです。ベートーヴェンはどうしてもこのシラーの詩をもとに曲を書きたかったようです。

しかし、第4楽章のシラーの詩は、ほんの一部分にしか過ぎません。

その詩の全文を知らなければ、詩の意味は分かりません。

そして、このシラーの詩の意味が分からなければ、第九の第4楽章に魂の底から感動することはできません。

音楽性で言えば、第九は、第1楽章第2楽章第3楽章が飛び抜けて凄まじい音楽です。私は、あらゆる音楽の中で、第九の第1楽章が最も好きかもしれません。第1楽章を聴いていると宇宙の神秘が明かされるような気がしてきます。

しかし、第4楽章はシラーの詩がメインでありシラーの詩がなければ音楽性では第1楽章第2楽章第3楽章の方が優れています。つまり、シラーの詩の深い理解を伴わなければ、その真価がわからない楽章なのです。

 

シラーの詩の全文を貼ります。他にいい訳があればまた貼ります。

 

 

 

歓喜に寄す (フリードリッヒ・フォン・シラー)

 

1.
喜びよ、美しい神々の閃光よ
楽園の世界の娘よ
私たちは足を踏み入れる、炎に酔い痴れつつ
天なるものよ、そなたの聖所へと
そなたの魔力の力は再び結びつける
世の中の時流の剣が分け隔てていたものを
乞食が王公の兄弟になるのだ
そなたのその柔らかな翼が憩うところで

抱き合おう、幾百万の人々よ!
このキスを全世界に!
兄弟たちよ、星の輝く天幕の彼方に
慈愛に満ちた父が絶対に居るに違いない

 

2.
大きな幸せを得たもの、
ひとりの友の友となり
優しい妻を得たものは
その喜びを共にしよう!
そうだ、たとえたったひとつの魂であっても
自分のものと呼べるものが世界の中にあるのならば!
そしてそれができないものは、そっと出て行くしかない
涙しながらこの集まりの外へ!

この大きな環に住むものらは
共感を尊びはぐくめ!
それは我々を星の世界に導く
あの未知なるもの(主)が君臨しているところへ

 

3.
喜びを飲む、全ての生きとし生けるものは
自然の乳房から
全ての善きもの、全ての悪しきものも
その薔薇の道を追い求めて行く
喜びは私たちにキスと葡萄(酒)とを与えた、
そして死の試練を乗り越えた友を
快楽は虫に(も)与えてしまい(与えられ)
そして天使ケルビムは立っている、神の前に

お前たちはひざまづくことはないのか、幾百万の人々よ?
創造主を感じられるか、世界よ?
彼を星の輝く天幕の彼方に探せ!
星の彼方に彼は必ずや居るに違いない

 

4.
喜びは力強いバネだ
久遠の自然の中において
喜びよ、喜びこそが歯車を回す
その巨大な宇宙時計において
それは花々をつぼみから誘い出し
恒星たちを天空から(誘い出し)
天球を空間で回転させる
予言者の遠眼鏡が知らぬところで

朗らかに、創造主の恒星たちが飛び回るように
壮大な天空を駆け抜けて
進め、兄弟よ、お前たちの行く道を
喜びに満ちて、勝利に向かう英雄のように!

 

5.
真理の炎の鏡の中から
それは探究するものに微笑みかける
美徳の険しい丘に
それは耐え忍ぶものの道を導く
信仰の輝ける山々の頂には
その旗が風にひるがえるのが見え
砕かれた柩の裂け目からは
それが天使の合唱の中に立っているのが(見える)

耐え忍べ、勇気を持って、幾百万の人々よ!
耐え忍べ、より良い世界のために!
星の輝く天幕の彼方の天国で
大いなる神が報いてくれるだろう

 

6.
人が神々に報いることはできない
しかし神々に倣うのは素晴らしいことだ
悲嘆にくれるものも貧しいものも出てこい
朗らかなものと一緒に喜べ
怒りも復讐も忘れてしまえ
不倶戴天の敵も許すのだ
彼に涙を強要するな
悔恨が彼を苦しめるようにと願うな

貸し借りの帳簿は破り捨ててしまえ!
世界全てが和解しよう!
兄弟よ 星の輝く天幕の彼方では
神が裁く、我々がどう裁いたかを

 

7.
喜びは杯に湧きかえる
葡萄の黄金の血のうちに
残忍なものは優しい心を飲み込み
絶望は勇気を(飲み込む)
兄弟よ、お前たちの席から飛び立て
なみなみと満たされた大杯が座を巡ったら
その泡を天にほとばしらせよう
このグラスを善き精霊に!

星の渦が褒め称えているもの
セラフィムの聖歌が賛美するもの
このグラスをその善き精霊に
星の輝く天幕の彼方にまで!

 

8.
重い苦悩には不屈の勇気を
無実のものが泣いているところには救いを
固い誓いには永遠を
友にも敵にも真実を
王座の前では男子の誇りを
兄弟よ、たとえ財産と生命をかけてでも
功績には栄冠を
偽りのやからには没落を!

神聖なる環をより固く閉じよ
この黄金の酒にかけて誓え
誓約に忠実であることを
これをあの星空の審判者にかけて誓え!

 

9.
暴君の鎖からの救出を
悪人にもまた寛大さを
死の床で希望を
処刑台で慈悲を!
死者もまた生きるのだ!
兄弟よ、飲み、そして調子を合わせよ
全ての罪人は赦され
そして地獄はもはやどこにもない

朗らかな別れの時!
棺衣にくるまれた甘美な眠り!
兄弟よ 優しい判決を
死の時の審判者の口から!

 

 

 

 

 

 

id:mariy22  

ショーシャンクさん こんばんは 木曜日から京都 奈良に紅葉狩りに今日帰ってきました。 京都では円山応挙展を観て奈良は春日大社に行ってきました。 今日から師走ですね。 1年経つの早いです。一年の締めくくりは  やはり第九歓喜の歌を聴かないと新年を迎えらレません。 ベートーベンはこの曲を完成したときは、殆ど耳が聞こえなかったのに、あれだけの大曲を作曲した事に神業的な才能を感じます。 第九の第4楽章がシラーの詩に曲をつけた作品だとは知りませんでした。 ご教授ありがとうございます。 又一つ博学になりました。 私的には第九も好きですが月光も好きで実家に帰った時は弾いたりしてます。 今年もタイムリミットに入りました。 明日はお天気が悪そうですが良い日になりますように。
 
 
まりさん、こんばんは。
CDについていた解説の訳では、私の一番好きな部分は
 
歓喜をすべてのものは
自然の乳房から飲む。
すべての良きもの、すべての悪しきものは
その薔薇吹く道をゆく。
それは、われらに接吻と酒をあたえ
死の試練をへた友をあたえる。
虫けらにも快楽はあたえられ
そして天の使いは神の前に立つ!
 
となっています。この訳の方が断然いいですね。
 
この詩の、
folgen  ihre  Rosenspur   を
薔薇には棘があり、茨の道つまり艱難の道を行く、と訳す人もいますが全く違います。
これはやはり、『すべての良きものもすべての悪しきものも、その薔薇咲く道を行く』と訳さなければいけないでしょう。
『虫けらにも快楽は与えられ』を『虫けらには快楽というくだらないものを与えられるが、神の教えを守る天使は神の前に立つのだ』というような解説がありますが、これも全く違いますね。
例えば、こういう解説があります。
『前段の、「自然(歓喜)はキスと葡萄酒と、死の試練を経た友人を与えた」は、純粋に与えられるもの(キスと葡萄酒)と、簡単には手に入らないもの(死の試練を経た友人)という対比の関係があると言える。これと同様に、セミコロンでつながれる、つまり言い換えとしての後半は、「誰にでも与えられる快楽と、畏怖すべき神の世界」という対比が提示されていると見てもよいだろう。これを受けて、シラーの原詩ではこのあとにIhr stürzt nieder(ひざまづくのか?)という表現が続くのだ。ベートーベンがCherubにfsfをつけて強調しているのは、ここを「自然の恵みを受け、地上での幸せは(虫けらも含め万人に)与えられるが、天上の神の前には門を守る天使ケルブが立っており、神の喜びを感じながらもそう簡単にはたどり着けない」と捉えているからではないか。このあとでvor Gottが繰り返されるのは、神にたどり着けない、だが何とかしてそこに行きたいという強い願望の表現ともいえるだろう。』
 
このように解釈しては絶対にいけないと思います。全く分かっていません。
対比とは真逆です。
Wurmは、虫は虫でも蛆虫や毛虫のような軟体の虫のことです。もっとも嫌がられる虫ですね。
これと天使ケルビムを対比しているのではなく、虫けらに与えられた快楽も、神の前に立つ天使の喜びも、宇宙的な歓喜の中では何も変わらないと言っています。
このシラーの詩は、究極のところを歌っているのです。
 
 
 
 
マグノリア (219.62.234.179)  
ショーシャンクさん、みなさん こんばんは。
シラーの詩のアップ、ありがとうございます! 第九はクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」で体感したときの印象が強くて、 これまで詩の全文までは特に注意をはらってこなかったのです。 (そのときに会場に聴こえていたのはフルトヴェングラーによる〈バイロイトの第九〉でした)
 
>対比とは真逆 >宇宙的な歓喜の中では何も変わらないと言っています。 >このシラーの詩は、究極のところを歌っているのです。
ショーシャンクさんによる解釈で、今、自分の内で未完のまま引き摺っていた「ベートーヴェン・フリーズ」の 大きなサークルが完結したように感じます・・
アフガンからの中村哲さん訃報で、気持ちが萎んでいくようだったけど、 少し経ち帰れそうです。 ありがとうございます。
 
 
マグノリアさん、おはようございます。
ベートーヴェンがシラーの詩に強く惹かれていきこの詩に曲をつけたいと思ったのはごく若い時であり、その構想を人生をかけてあたため、晩年に結実したのが第九です。
ベートーヴェンとシラーの詩の出会いにはこのような解説があります。
ベートーヴェンは、「第九」を作曲する際にシラーの詩に出会ったわけではない。もっと若い心を持っていた青年期に、非常に強いイメージで刻まれていたに違いない。また1804年レオノーレのスケッチにシラーの詩「歓喜に寄す」の一節とそっくりの言葉と、「歓喜のメロディー」とが結びついたのはただ偶然にそうなったということではない。
1787年シラーのこの詩がシラーの自費出版の雑誌「ラインニッシェ・ターリア(ラインの美の女神)」第2号に発表された。ベートーヴェンは1789年5月、ボン大学ドイツ文学科の聴講生となり、フランスのバスチーユ占領のニュースがボンに入ったとき有名なシュナイダー教授の熱烈な詩を聞く。そしてシラーのこの詩を読み感動する。
それまでもシラーの書いた劇作はボンでは発表されたその年か、おそくも翌年には必ずといっていいくらい上演されていた。ベートーヴェンはボンのフライマウレルのメンバーとも親しかったので、ほとんど確実に印刷になる前に読んでいたに違いない。
それ以上確かなことは、1792年ベートーヴェンはボンを離れる前に、「この詩の全篇に音楽をつけたい」と言っていたことがシラーの友人でありボン大学の教授となって赴任してきていたフィシェーニッヒがシラー夫人シャルロッテにあてた手紙に書かれている。シラーの発出の詩をベートーヴェンがボン時代に読んでいたということは『第九』の作曲の精神がどこにあったかを考える上できわめて重要なことである。』
 
シラーの詩との出会いから30年かけて第九が完成したということのようです。
それほどまでにシラーの詩に惹かれるものを感じていたのでしょう。
第九は特に第1楽章の音楽性が群を抜いており、第2楽章第3楽章も同じ最高レベルにあるのに、第4楽章のはじめで、第1楽章第2楽章第3楽章と順番に否定していきます。そして、『おお友よ。これらの旋律ではない。もっと心地よい歌を!』とまで言って第4楽章の旋律が始まります。
それだけ、シラーの詩への思い入れが大きいということでしょう。