『全ての芸術は音楽に嫉妬する ニーチェ』 みたいな言葉がある通り、音楽が一番偉大な芸術なのはわかります。 何百年間人々を感動させてきたか、という視点で考えれば、そこで言う音楽が、クラシック音楽を指していることも想像できます。 クラシック音楽を真面目に聞いた事がない自分が唯一、これはいいクラシック音楽だな、と理解できるのが、ドヴォルザークの新世界です。これは認識できます。 他はベートーベンとかモーツァルトとか、いわゆる子供の頃に学校の音楽の授業で聞かされたクラシック音楽を聞いても、自分の脳には、その辺のアイドルの歌と同じで、全く響きません。 大多数の人々も同じだとは思いますが、この事は自分の人生にとってとんでもない損失だと思います。道端のいつ1万円札を拾わずに歩いてるようなもんですね。小さい頃からクラシック音楽に慣れ親しんだ脳でなくても、今からでもクラシック音楽に感動できるようになるのであれば、是非そうなりたいですし、多少の訓練で耳を鍛えるというか醒ますだけで、そうなれるのであれば、自分の人生にとってそうすべきだと考えています。 ドヴォルザーク新世界はかろうじて理解できる脳にとって、まずは何から聴けば、音楽脳の効率的な発達に繋がるとお考えでしょうか。
福川さん、こんばんは。
すべての学問が数学に嫉妬するように、すべての芸術は音楽に嫉妬しますね。音楽は言語を通さないので直接魂に働きかけると思います。
映画は音楽なしには成り立たないですし音楽を超える作品は生まれないでしょう。文学も言語の壁があります。
音楽の中でも、POP音楽は好きか嫌いか、です。ジャズもロックも好きか嫌いか、です。しかし、クラシック音楽は、わかるかわからないか、だと思います。
私も、高校の時まではクラシック音楽がわかりませんでした。商売人の家庭で周囲にクラシックを聴く人は誰もいませんでした。
ただ、そういうときでも、かろうじて3つの曲だけは好きでした。
それは、ドヴォルザーク『新世界交響曲』、スメタナ『モルダウ』、ムソルグスキー『展覧会の絵』です。
ただ、これは、感動というものではなく、メロディが好きだというレベルでした。
大学に入って、モーツァルトの交響曲40番やピアノ協奏曲20番などを聴いてみたのですが、繰り返し聴くとメロディには慣れたり親しみを覚えたりして『まあ、いいんじゃない?』とは思うのです。
クラシック音楽を聴くという人の多くはこの、メロディを聴き慣れて覚えていて『きれいだし、いいんじゃない?』という感じだと思います。
しかし、今思うと、それは『わかる』ということでは全くないということです。
そこには、自分の精神と音楽の間に薄皮のようなものが存在していて、決して触れ合うことがない状態だとわかります。
私の場合は、精神世界の本を読み漁って思索して、意識が広がった気になっていたころ、ベートーヴェンの運命交響曲を聴いたときに、薄皮が破れて、本当に『わかった』と思いました。そのひと夏中、『運命』を聴いていました。それによって、ロマン派の音楽家(シューベルトやブラームスやチャイコフスキーなど)はすべて『わかる』ようになりました。ただ、ロマン派でもマーラーは『巨人』『大地の歌』を除いてはわかりませんでした。マーラー第九番などがわかるようになるのはそれからずいぶん後です。そして、バッハだけはいまだに薄皮があります。死ぬまでにわかるかどうかわかりません。
おすすめしたいのは、親しみやすい『新世界』『モルダウ』などで慣れ親しんで、それからベートーヴェンの奇数交響曲つまり、3番、5番、7番、9番のどれかを集中的に聴いていればいつか薄皮が破れる時が来るような気がします。
バッハやモーツァルトの音楽は天で響いていて地とは接触しませんが、ベートーヴェンの音楽は地から天に上昇しようとする音楽ですから、とっかかりがあります。
私も、クラシック音楽とは縁のない環境に育ちましたが、哲学的な思索や瞑想などで薄皮が取れて音楽が分かるようになりました。波長が合ったということかもわかりません。
人類の至宝たるクラシック音楽がわからないのは、人生の大損失だとは思います。
ぜひ『わかる』ようになっていただきたいと思います。