イエス・キリストに思うこと

今日はクリスマスですので、イエス・キリストについて思うことを書きます。

イエス・キリストは世界に最も影響を与えた人であることは確かです。

イエス・キリストがこの世に生まれていなかったら、世界はまるで違ったものになっていたでしょう。イエスの誕生によって、人類は高次な宗教意識を持つことができるようになったと思います。もちろん、十字軍や魔女裁判、神父による性的虐待事件などありとあらゆる悪いことも起きたのは事実ですが。

 

 

さて、私には聖書を読んでいて長い間どうしてもわからない箇所が3つありました。

 

1つは、十字架にかけられたときの記述です。

 
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
                      マタイによる福音書/ 27章 46節
 
 
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
                      マルコによる福音書/ 15章 34節
 
これをどう解釈すればいいのか、酷い解釈では、最後の最後に信仰を捨てたなどと言うことを言う人までいます。
 
 
2、エルサレムの神殿で商売していた人を追い払ったこと
 
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』  ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
                     ルカによる福音書/ 19章 45節46節
 
この神殿はユダヤ教の神殿です。イエスは、神殿を自分の肉体の意味に使うこともあり神殿という建物にこだわる必然性もなく、ユダヤ教の神殿の風紀を守る立場でもないのになぜユダヤ教の神殿で商売している人をわざわざ暴力で排除するような行動を取ったのか、疑問でした。
 
 
3、イチジクの木に呪いをかける
 
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 
                  マルコによる福音書/ 11章 12節~
 
 
 
この3つの疑問のうち、1と2は、自分の中で解決しました。
1は、旧約聖書の預言を実現させようとして、十字架上で旧約聖書にある言葉を唱えたということだと理解しました。
また、2に関しては、イエス・キリストは決してユダヤ教を否定するために来たわけではなく、むしろその教えを実現するために来たのであり、ゆえに、ユダヤ教の神殿はイエス・キリストにとっても神聖なものであり、旧約聖書にあるように祈りの家であらねばならない、ということなのだと解釈しました。
 
しかしながら、3のイチジクの木の呪いに関しては、未だに理解できないままです。
 
今日はクリスマスなのでもう一度考えてみます。