「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。」
イスラエルでは、いちじくの木は、よく見かける木です。いちじくは、3月に緑の実を付け始めます。これも食用になり、農夫がよく食べたそうです。4月になると、葉を茂らせます。過越の祭りは3〜4月ですから、きょうの箇所はこの時期にあたります。そして、5月末〜6月に、緑の実は熟します。これが夏いちじくです。その年の新しい枝に付いた実が熟すのはそのあと、これが秋いちじくです。収穫の終わりは8月末です。春先に緑の実が付かない年は、いちじくは不作です。
■いちじく=約束の地の代表的な産物のひとつ
申命記8:8「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地」
■いちじくの木に実はなかった
このいちじくの木は、遠くから見ても目立つほど、葉を茂らせていました。いちじくが熟する季節ではないので、熟した実がないのは当然です。イエスが期待したのは、農夫たちが食用にする緑の実でした。しかし、この木にはそれすらなかったのです。
このいちじくの木は、この時代のイスラエルの民の象徴です。外面は繁栄していますが、内面は実を付けていません。そして、特に当時の指導者たちの特徴は、宗教的偽善です。このあとに続いて起こる出来事、イエスによる神殿の清めは、宗教的偽善に対する神の怒りを示す出来事です。
※※※※※
しかし、この説明ではどうも釈然としません。
聖書ではこうあります。
マルコによる福音書/ 11章 12節~
このいちじくの木は、実のなる季節ではなかったから実をつけていませんでした。
だけど、木に向かって『今後おまえから実を食べる者がないように』と言うと、その木は枯れてしまった、ということです。
そして、この出来事を解説して、イエスは言います。
『だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と。
もし、このいちじくの木をイスラエルの民の象徴として、これから実がならずに枯れることを喩えたのだとしたら、『だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる』と言う言葉をその解説とはしないはずです。
山に向かって海に飛び込めと言ったらそうなるのであれば、いちじくの木に対しても、実がなるように言ったらすぐ実がなるはずです。5000人分以上のパンや魚を一瞬で現出させた人なのですから。
なぜ、いちじくの木を枯らさなければならなかったのか、この一点だけはどうしてもわかりません。