俯瞰して見る

たーぼー (126.245.53.6)  

ショーシャンクさんこんばんは。 しかし、少しずつ、意識が広がって、この世を固定したものでなく泡のように見ることができはじめると、エネルギーが引き裂かれることがなくなってきます。 言い換えると、『俯瞰して見る』ということになるかもしれません。 今は出来ていないですが、私この泡のような感じよくわかるんです。 解脱前の感じではないでしょうか? 一方で以前のショーシャンクさんの投稿で、禅にも意識レベルの高い人はいると思いますとか、後は私の好きな池田晶子さんも使っていた魂の傾向性という言葉をショーシャンクさんも使っていました。 禅だと大悟徹底した境地とは、「柳は緑、花は紅」という非常にくっきりはっきりした境地のようです。 目は横鼻は縦というような、はっきりくっきりした感じらしいのですが、何かよく分からなくて、これって魂の傾向性なんでしょうか?
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
禅は私も好きで、高校時代から禅の本はよく読んでいました。『臨済録』や『正法眼蔵』、あるいは、『碧巌録』や『無門関』を解説した本など、どれも好きでした。
禅では、臨済が飛び抜けていると思いますし、後世、臨済の法流のものばかりが繁栄していき中国の禅界のほとんどが臨済の影響下にあるくらいまでになりました。
この臨済と同格なのは趙州で、臨済よりひょっとすると上なのは、長沙と普化かなと思っています。
 
ただ、仏陀の真意を探求していてその全体像が分かるようになると、禅の危険性も感じます。禅のような無思考型の瞑想は、確かに坐禅している40分ほどは思考が少なくなり、それを長期間続けると、ある時に意識から思考の制限がなくなり、悟った気分になることはあると思います。しかし、日常生活に戻ると、思考というのは必要不可欠ですから、元の木阿弥です。その悟った体験を記憶として持ち続けて『自分は悟った』と言ってむしろそれが自我を形成してしまう人が非常に多いように思えます。禅をやったばかりに人格が悪くなる人もいるでしょう。
奇抜な『二元対立を超越したような言葉』を吐いては悦に入るような人が出てきます。
 
道元は、宋から帰った時、『眼横鼻直なのがわかった』と言いました。
禅ではよく『柳は緑 花は紅』という言葉を使います。
私に言わせれば、『それがどうした?』という感じです。
仏陀はそのようには見ないでしょうね。眼も鼻も柳も花も生滅するもの、変滅するものとして見るでしょう。
 
私は、柳は緑、花は紅とくっきり見るより、その境界がなくなるようなそのような世界観の方が好きですね。
 
 
たーぼー (126.245.53.6)  
ショーシャンクさんこんばんは。 今日いつも通りトラックの仕事が終わって、スマホで私の大好きな長渕の歌を聴いたら昭和という曲でした。ちょっと歌詞を見て下さい。ユーチューブに歌の動画があるので良ければ見て下さい。 昭和 作詞:長渕剛 作曲:長渕剛 傷つけば傷つくほど優しくなれた 貧しさは大きな力になり 意気地のなさは勇気に変わる ひねた瞳は真実を欲しがる 真実はとてつもなく激しかった 愛せば愛するほど苦しくなる はかなさが美しいから 死にたくてもまた歩いた 俺はいま真夜中の湾岸をとばしている カーラジオ消して受話器を耳にかたむける 進路は東へとお前の声を聞きながら走る とうとう昭和の歴史が終わった 悲しめば悲しむほど想いやれた 悔しさは大きな力になり 力はいつしか詩になる 許せないのは自分となる 俺はいま受話器を静かに置いた あゝ吹きすさぶ強く冷たい風に抱かれたい 夜明け前の街が確かに動き始めてる とうとう昭和の歴史が終わった 夜明け前の街が確かに動き始めてる とうとう昭和の歴史が終わった 私はショーシャンクさんの書いていた四無量心という言葉が浮かんで、トラック運転しながら涙腺が緩んでしまいました。
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
人は音楽を聴くと何故感動するのでしょうか。もちろん様々な理由はあるでしょうけど、その時に俯瞰して見ることができるからではないかと思います。
自分の過去、記憶、思い出を俯瞰して見る、この世のあり様を俯瞰して見るような意識状態になることができた時に感動するのだと思います。
日常生活に巻き込まれているときには、その次元で快楽や苦痛を経験します。そしてその経験に巻き込まれていて俯瞰できない状況です。
音楽を聴く時、日常の感覚を離れ少しの間俯瞰して見るような感覚になることがあります。そのときに、すべては美しい泡のように見えるのかもしれません。
 
映画『フラッシュダンス』の主題歌『What a Feeling』にあるように、
この世界は日常の感覚で見ると、『鋼鉄と石で作られた変えられない強固なもの』と見えてしまいます。
しかし、俯瞰して見れば、この世は泡のように変えやすいものです。臨済もそう言っています。
 
 
 
   我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無

三界唯心、万法唯識なり

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん

唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず水に入って溺れず

三途地獄に入るも

園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず

何に縁ってか此の如くなる

嫌う底の法無ければなり

 

 

 

大徳、四大色身は是れ無常なり

乃至、脾胃肝胆、髪毛爪歯も、唯だ諸法の空相を見る

汝が一念心の歇得する処、喚んで菩提樹と作す

汝が一念心の歇得すること能わざる処、喚んで無明樹と作す

無明は住処なく、無明は始終なし

汝若し念念心歇不得ならば、便ち他(か)の無明樹に上り

便ち六道四生に入って、披毛戴角せん

汝若し歇得せば、便ち是れ清浄身界なり

汝一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化し

意生化身して、法喜禅悦し、身光自ら照らさん

衣を思えば 羅綺千重、衣を思えば、百味具足して、更に横病なし

 菩提には住処無し、是の故に得る者無し

道流、大丈夫の漢、更に箇の什麼をか疑わん

目前の用処、更に是れ阿誰そ

把得して便ち用いて名字に著すること莫きを、号して玄旨と為す

与麼に見得せば、嫌う底の法勿し

古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり

流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し、と

 

 

 

汝が一念心の疑、地に来たり礙えらる

汝が一念心の愛、水に来たり溺らさる

汝が一念心の瞋、火に来たり焼かる

汝が一念心の喜、風に来たり飄えさる

若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん

東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没

水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん

何に縁ってか此の如くなる

四大の如夢如幻に達するが為の故なり

道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん

 

 

 ここで臨済は、四大(地水火風というこの世を構成する要素)が夢や幻のようであるという意識に到達すれば、水を踏むことも地を踏むようにすることができるとまで言っています。凄い全能感ですね。
 
 
それにしても、映画『フラッシュダンス』の主題歌『What a Feeling』の字幕版の訳は本当にいいですね。英語の原文からこのように訳すのはなかなかできません。屈指の名訳だと思います。
 
私は独り 涙を流す
誇りに満ちた 静かな涙を
鋼と石でつくられた 孤独な世界で
 
このフィーリング
人生を信じて ステップ踏めば 世界は私のもの
情熱に燃えて 夢を捨てずに
ステップを踏めば 人生は光り輝く