過去の記憶の束をDeleteすること

たーぼー (126.245.53.6)  

ショーシャンクさんこんばんは。 私は欠乏感で一杯だったから貧乏だったのか(笑 言われてみればそんな感じします。 楽しんでこの世界を創造するっていいですね。 壮大な気持ちになって、小さな事は気にならなくなります。 ショーシャンクさんはまだ精神が常時無量ではないと おっしゃってましたが、具体的にどの位の頻度で無量になりますか? おそらく無量になる時は、性欲が昇華される時だと想像しますが、1日のうちとか1週間のうちとかで頻度(時間)を知りたいです。 無量ではない時は、泡のように見るような状態でしょうか? それとも凡夫のように、自他の分別がはっきりして、世界がはっきりある感じになる時もありますか?
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
私が歴史上の仏陀の真意を探求してきて、仏陀が言っていることは今までの仏教が言っていることと全く違うものだということに愕然としています。
もっとも重要なことがすっぽり抜け落ちています。
それは、中心の成り立ち、自我の成り立ちを徹見することです。自我という中心がどのようにして構築されてきたかを洞察することです。
(実はその洞察こそ十二縁起の本質なのですが、十二縁起の決定的な解釈については自費出版で書くつもりです)
中心の成り立ち、その中心こそ矢です。
その矢には三毒という毒が塗られています。
毒矢です。
その自我と言う中心は記憶の束によって構成されています。
中心があると無量ではありません。
厳密には中心たる記憶の束をdeleteしなければ、無量には達することができません。
もちろん、音楽を聴いたり仏典や聖書などの本を読んだり瞑想したりリラックスしたりするときには意識の広がりは感じます。私もよくあります。しかし、それはまだまだ本当の無量ではありません。一時的な無量気分です。
今までの仏教特に鎌倉仏教以降は唱え言か只管打坐という無思考型瞑想に特化してしまい自我の成り立ちを洞察することや記憶の束を懺悔してdeleteすることがなくなっています。引き寄せの法則やノンデュアリティにも全くありません。
これがないと、潜在意識にどす黒い中心を抱えたまま悟りや目覚め気分に酔ってしまい、その悟り体験がかえって自我を強固に形成してしまう最悪の結果になります。玉城 康四郎博士が座禅や念仏でどうしても消滅せず何十回も元の木阿弥になったと書いた『我塊』がそれです。
往々にして、目覚めたとか見性したとか言っている人の人格が低劣なことがあるのはこういう理由です。
 
キリスト教には懺悔があり、神道には大祓や禊ぎがあります。ホ・オポノポノも記憶をdeleteしていきます。
仏教でも平安時代は、法華懺法が広く行じられていました。これは法華三部経である仏説観普賢菩薩行法経に懺悔の法が説かれているからです。
 
ただ、今の仏教には、上座部仏教にしても大乗仏教にしても、懺悔のようなものがありません。上座部仏教はすっかり、satiを『気づき』と訳してヴィッパサナー瞑想の専門のようになっていますし、大乗仏教では懺悔文はありますが懺悔文というごく短い言葉を唱えるだけです。
 
私は、satiは、『気づき』ではなく、『理法を記憶して心に留めて繰り返し念うこと』と考えています。
 
質問の答えですが、私は、瞑想の時や読経の時、音楽を聴いたりリラックスしているときは意識が広がって無量を感じることはありますが、日常生活で難しい相手との交渉などでは、思考をフルに働かせており無量からは遠ざかります。そういう日常に巻き込まれている時間が大部分ですね。
これには、やはり、記憶の束のdeleteを進めていくことだと考えています。
 
 
 
 
たーぼー (126.199.137.251)  
これには、やはり、記憶の束のdeleteを進めていくことだと考えています。 記憶の束をdeleteしていくためには、高原さんには怒られたけど、その当時の自分の深層心理を洞察して、その思いがその現象になって現れたと瞑想していくしかないと思うんです。 それで手のひらを開いて石を見るという感じで、自分の中で納得して、心の傷を癒していくしかないのではないのでしょうか? その心の傷が矢になっていると思うんです。 どうしてこんな理不尽な出来事が起きたんだろうとか思う事ってありますよね。こんな理不尽な出来事は納得出来ないとか。その傷を癒すべきだと思います。 そうすると、その当時の自分では気づいてなかった依存心とか思いだして、その依存心が現象になって現れたんだなと納得出来て癒されるんです。 でもそうすると、あの子はもうこの世に居なくなってしまうのかなぁとか。。 結局全ては自分が作っていた心の幻影に過ぎないのかなぁと思うと、この世には自分一人しか居ないのかと思って寂しくなります。 こうやってショーシャンクさんに書いているのも、自分自身に書いている様な、まさに独り言を書いている様な寂しい気持ちになります。 ショーシャンクさんは、私の様な体を持った人間なのかなとか(笑 全ては自分が頭でイメージしているに過ぎない。 本当にあるのは、目の前のスマホに写っている文字だけであり、そこから私がイメージを膨らませているに過ぎないです。 ショーシャンクさんは、このように思う事はありませんか?
 
 
中心こそが『矢』なのです。中心を持つことが『苦』なのです。
中心のない、広々とした大海、それこそが本当の自分です。
中心を持っている限り、個である限り、どんなに多くの人に囲まれても寂しさはつきまといます。誰かに寂しさを埋めてくれることを求めれば、それが依存になって、それを失うことが恐怖になります。
そしてそれを失ったときには、一層の寂しさを感じてしまいます。
 
ゆえに、人はただひとりあらねばならないのです。
犀の角のように。
ひとりあるというのは孤立したり孤独になったりすると言うことではなく、誰にも何にも精神的に依存しないということです。
 
私は例えばこのブログで誰かにレスしているときに、その相手が幻想だとは思ったことはないです。日常生活で話すのと同じく、やはり画面の向こうに実在する人間との交流です。それは依存がないときにはじめて楽しむことができるのだと思います。日常でもネットでも依存があれば苦となり、依存がなければ楽しめます。
 
記憶の束をdeleteすることや懺悔と、悔恨、後悔とは違います。
記憶の束をdeleteするとは、記憶の束が私ではない=非我 と徹見することです。私ではないと切っていくことです。記憶喪失になるわけではなく、ただたんに私ではない、本当の私は無限の大海だと観じることです。
本来無限の大海なのに、様々な記憶の束で限定してしまったことを見極め、そのような中心が苦をもたらしていたことを洞察すること、これが懺悔です。
これが進めば進むほど、無限の大海が目の前に現れてくるのだと確信しています。
 
 
ショーシャンクさんこんばんは。 私が思うのは、ショーシャンクさんは創造主ですよね?私も創造主なんです。 そうしたら創造主と創造主がガッチンコしちゃうじゃないですか。 私の創造とショーシャンクさんの創造は違うわけでしょ? 歴史とは絶対精神の自己展開だという言葉のいまいち分からないのもそこです。 私が絶対精神であり、私の自己史の自己展開というなら分かるんです。 でもショーシャンクさんと私の自己史は違うわけでしょ? 学歴も生い立ちも経験も仕事も性格も全部違うわけでしょう? つまり歴史とは私だけではなくて、人類史なわけです。 なんで人類史がこの歴史なのか分からないんです。 何故その時に日本軍は真珠湾を攻撃したのか? 何故世界史はこの歴史なのか?
 
たーぼーさん、こんばんは。
創造主というのは、『私』という中心がない唯一意識のことを言います。中心があるうちは、唯一意識=無限の大海 ではなく、次々に迷妄が作り出されます。中心があれば他の中心とぶつかり合います。それが私たちが経験しているこの世で起っていることです。人と人は争い、国と国とは戦争しています。
ヘーゲルが言った『歴史は絶対精神の自己展開』というのは、そのような迷妄が蔓延りひとりの人が支配し他は全部奴隷状態で自由は全く無いというような状態は歴史上ありましたが、その基盤は絶対精神=唯一意識 であり、絶対精神の本質である自由に向かって流れていく、絶対精神が自己展開していく過程だということです。
ですから、歴史は明らかに自由な方向に向かっているのです。明らかに叡智の方向に向かっています。
もちろん、どんどん悪い世の中に向かっていると思い込んでいる人たちはいっぱいいます。ほとんどのメディアはその論調です。しかし、世界史を見れば、明らかに自由に向かっていっています。100年前、500年前、1000年前、2000年前と今を比べてみてください。
確実に、絶対精神の本質である自由に向かって流れています。部分的に逆流していると見えるところがあったとしても、川全体の大きな流れは海に向かって流れています。
日本では特にネガティブに見る人が多く、凶悪犯罪も年々増え続けていると思い込んでいる人もいますが、凶悪犯罪、そしてすべての犯罪件数はどんどん減っているのです。
日本でも、宗教例えばキリスト教を信じていたら死罪になったときがありましたが、いまは何を信じていようがそれで死罪になることはありません。その当時の先進国トップのイギリスでも、同性愛というだけで牢獄に入れられたりすることがありましたが、いまはそういうことはありません。
 
質問の答えですが、もちろん個々、学歴や職歴などの経歴も経験も性格も違います。そのような経歴を記憶の束として自分だと思い込んでいます。しかし、仏陀の教説では、そのようなものは『私ではない』のです。私もまだまだdeleteし尽くしていないのですが、方向性としては無限の大海に向かっていると確信できています。