映画『オペレーション フィナーレ』は、ホロコーストの首謀者と言われた元ナチス幹部アドルフ・アイヒマンを逮捕し、イスラエルの裁判にかけたモサドの活躍を描く作品です。
実話です。
物語は淡々と進み、特に大きな抑揚もありませんが、諜報員マルキンとアイヒマンの交流など意外と見所がある作品となっています。
600万人ものユダヤ人の命を奪ったホロコースト、その首謀者逮捕にかけるモサドのメンバーたち、アルゼンチンに逃亡しているアイヒマンやそれを支援したり反ユダヤを掲げる人たち、全体的に抑制の効いている映像だけに余計緊迫感が伝わってきます。
さて、このアイヒマン逮捕劇は、世界中に衝撃を与えました。
これについて、様々な論評があります。
※※※※※
ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。
ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。
このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。
この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。
「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
悪の本質は「受動的」であること
アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。
そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。
別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
※※※※※
アルゼンチンに潜んでいたナチス・ドイツの戦犯アドルフ・アイヒマンを捕まえたイスラエルの実行責任者ラフィ・エイタンが2019年3月23日、テルアビブの病院で亡くなった。92歳だった。
情報機関モサドの部隊を指揮し、アイヒマンを拉致して本国に連行した。ユダヤ人を強制収容所に送り込んで抹殺する「最終解決」の計画立案者という大物だっただけに、世界をあっと言わせた。他にも数多くのイスラエルの工作活動で手柄を立てたとされ、母国では伝説的な存在になっていた。
「まさに、わが国の情報機関が生んだ英雄の一人だった」とイスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフは、その死を惜しんだ。
米国の中央情報局(CIA)にあたるモサドに、アイヒマン拘束の端緒となる情報がもたらされたのは、西独(当時)の検察官からだった。
若いドイツ人女性が、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでニコラス・アイヒマンという若い男性と友達になった。郊外に住み、父親はリカルド・クレメントという別名を名乗っている――とのことだった。
張り込みの結果、その人物は毎日、バスで仕事から帰宅していることが分かった。エイタンの部隊は、アイヒマンらしいと判断した。
1960年5月11日、実行に移った。立ち往生した車を、何人かで直しているように見せかけた。バスから降りたその人物に、機を見て飛びかかった。
「私は思いっきり首を絞め上げた。眼球が飛び出しそうになるのが分かった」とエイタンは、その瞬間を振り返っている。「もう少し力を入れていたら、死んでいたかもしれない」
車に連れ込んで3マイル(4.8キロ)離れた隠れ家に向かい、身柄を7日間とめ置いた。問い詰めると、アイヒマンであることを認めた。
「こちらが(訳注=確証がないために)どれだけ神経質になっているかを悟られないようにするのに苦労した」とエイタンは後に明かしている。「悟られれば、なんとかできるかもしれないという希望を相手に与える。それは、絶望的な状況にある人間を危険な存在にしてしまう。だから、まったくの無力感を味わうようにさせる必要があった。同胞たちが、そいつによって貨物列車で死の収容所に送り込まれたときのように」
さらに、本国に連行せねばならなかった。
イスラエル国営エル・アル航空の乗務員の制服を着せた。無理やりウイスキー1本を飲ませ、フラフラにして二日酔いの客室乗務員のように見せかけて出発便に乗せた。本物のエル・アル乗務員が1人ブエノスアイレスに残り、搭乗名簿と食い違いが生じないようにした。
エイタンの部隊は、ナチスの重要戦犯がまだアルゼンチンにいることを知っていた。収容所のユダヤ人に人体実験を繰り返した「悪魔の医師」ヨーゼフ・メンゲレだ。しかし、エイタンは、メンゲレを拘束する動きはすべて凍結させた。アイヒマンの身柄確保に集中するためだった。
この拉致事件をアルゼンチン政府は、主権の侵害であり、国際法に反すると非難した。しかし、ホロコーストを生き延びた人々は、深い満足感を示し、正当であるとみなした。
アイヒマンは、エルサレムで裁判にかけられた。ナチス・ドイツによる組織的なユダヤ人大量虐殺の実態に、改めて世界の耳目が集まった。そして、人道に対する罪で有罪とされ、62年に絞首刑に処せられた。
その処刑室で、エイタンはアイヒマンと話した――英作家で調査報道にも携わったゴードン・トーマスは、95年に出した自著「Gideon's Spies: The Secret History of the Mossad(邦題「憂国のスパイ――イスラエル諜報(ちょうほう)機関モサド」)の中でこう書いている。
「アイヒマンは自分を見て、『おい、ユダヤ人。私の後に続くときが来るからな』と言った。私は、こう答えてやった。『でも、今日ではないよ、アドルフ。今日ではない』と」
(なお、アイヒマンの拘束は、2018年に米国で映画化された。「Operation Finale〈邦題:オペレーション・フィナーレ〉」の中で、エイタン役をニック・クロールが演じている)
エイタンは1926年11月23日、当時の英委任統治領パレスチナで生まれた。両親は、3年前にロシアから移住してきたシオニスト(訳注=ユダヤ国家の現地再建を目指す運動の信奉者)で、テルアビブに近い小さな入植地で暮らしていた。まだ10代にも満たないのに、エイタンはアラブ人の攻撃から入植地を守るために、現在のイスラエル軍の前身であるハガナーに入った。やがて、その精鋭部隊パルマッハに引き入れられた。
ユダヤ人は、自治を求めて英国に圧力をかけた。エイタンの最も危険な任務は、現在のイスラエル北部・カルメル山にあった英軍のレーダー施設を爆破することだった。そのためには、下水道を伝って動かねばならず、後で「臭いラフィ」のあだ名が付くようになった(もう一人の「ラファエル・エイタン」と区別するためで、こちらはイスラエル国防軍の参謀総長にまでなった)。エイタンはさらに、ナチスによって迫害されたユダヤ人難民をパレスチナに密航させることにも深く関わった。
イスラエルの建国に伴う1948年の第1次中東戦争で、エイタンは2度負傷した。戦場で動き回るのが困難になったと上官に報告すると、諜報部隊に組み込まれた。英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学位を取った時期もあったが、工作員としての歩みはこのときから始まった。
アイヒマンの拘束以外にも、エイタンは多くの工作活動に関わった。72年のミュンヘン五輪でイスラエルの選手多数がパレスチナのテロ組織に殺害されると、報復の暗殺作戦に携わった。「対テロ戦争の原則は、原則なしに遂行することにある」とエイタンは2010年にイスラエルの有力紙ハアレツに語っている。「ただ、戦いあるのみなのだ」
イスラエルは、イラクが核開発を始めたと見て、81年に問題の原子炉を爆撃した。ここでも、エイタンは暗躍した。
大きな外交問題に発展したのは、友邦・米国へのスパイ活動だった。米海軍情報分析官のジョナサン・ポラードが、85年に逮捕された。何千もの機密文書をイスラエルに流していたとの容疑を認め、終身刑の判決を受けた(30年後の15年に仮釈放された)。
イスラエル側は当初、モサドの勇み足ということで収めようとした。しかし、当時の首相シモン・ペレスは、正式に謝罪する事態に追い込まれた。そして、前任首相メナヘム・ベギンのテロ対策顧問となってから、ポラード工作の直接の責任者を務めていたエイタンを米国務省が尋問することを認めざるをえなかった(エイタンは後に、「きちんと許可を得て、権限を確保した上でのことだった」と報道関係者に漏らしている)。
先の英作家トーマスによると、エイタンは英国の対外情報機関MI6にテロ対策で助言する秘密顧問になったこともあった。ジブラルタルにいたアイルランド共和軍の爆弾テロ細胞をモサドの工作員が追跡するのを手伝い、最終的には英特殊部隊がこの細胞を葬り去ったとしている。
エイタンは、ポラード事件を受けて、諜報活動からはずされた。代わりに、イスラエル国営の化学薬品・肥料メーカーの経営を任され、93年に67歳で退くまで務めた。
しかし、完全に仕事から引退したわけではなかった。キューバで大がかりな営農・建設事業に取り組んだ。情報機関の幹部によく見られるように、政界にも打って出た。06年のイスラエル総選挙では、年金受給者の党「ギル」の党首として7議席を獲得。短い間だったが、年金担当の閣僚にもなった。
意外な側面も持ち合わせていた。彫刻を趣味としていたことだ。30年余にわたって、100を超える作品を作った。
しかし、その頭脳の明晰(めいせき)さが存分に発揮されたのは、何といっても工作活動だった。(抄訳)
(Joseph Berger)©2019 The New York Times
※※※※※