映画『神の日曜日』は、実話に基づいたキリスト教の牧師の話です。
以前、私はキリスト教関連の映画も数多く観ていましたしディスクも多く所有しています。
イエス・キリストを描いた映画はほとんどすべて観ていますし、聖フランチェスコの『ブラザーサン・シスタームーン』は、私の好きな映画ベスト10に入るくらいですし、『祈りの力』や『天国は本当にある』などのキリスト教宣伝映画までも多く観ています。
キリスト教やキリスト教文化をずっと尊敬していました。
しかし、マニカナ掲示板に仏教語をハンドルネームにして仏教徒を偽装したメッターという者が乱入してきて主催者の石飛先生や他の人たちを盛んに汚い言葉で貶し始めました。
このメッターという者は、本当は、ヤフー掲示板でマルコなどと名乗っていた熱心なキリスト教徒でした。
その言動を見るうちに、キリスト教への尊敬や親しみが全く消え失せ、興味もなくなり、失望感だけが広がって、以前ほどキリスト教関連の映画を観ることはなくなりました。
極めて強い負の影響力だったと思います。
口先だけでいくら愛だの許しだの並べ立てても、その言動、行状があまりにもなっていない現実に愕然としました。
世界を見ても、キリスト教国でありながら盛んに戦争や虐殺を起こしてきた事実が数多くあります。
尊敬が消え失せ、極めて冷静に考察し始めると、メッターという者が強調していた、キリスト教学の根本理論である三位一体に関しても、疑問が生じてきました。
三位一体は、神の3つの側面、ペルソナです。
父と子と聖霊です。
神なる父、神なる子、神なる聖霊です。
ところが神の中に人間、衆生が入っていません。
キリスト教神学では、神と人間にはどうしても分離があることになります。
ユダヤ教やキリスト教では、神と人間は契約で結ばれる関係です。
契約する関係というのは、別個の人格ということです。
しかし、神を唯一神、絶対とするなら、神でないものはないはずです。
キリスト教神学は、本当にイエス・キリストが言おうとしたことなのでしょうか。
さて、このことを踏まえて、この『神の日曜日』を観ると、この牧師の苦悩がわかる気がします。
神なる子、イエス・キリストが全人類のために贖罪をおこなった。
完全なる神が人類の罪を贖ったのだから、人類の罪は完全になくなっているはずだ、これがこの牧師の主張です。
ですから、キリスト教が伝播してないアフリカの地方に生まれキリスト教を知らず信仰も持たずに死んでいくアフリカの人たちもすべて救われているはずだ、という主張です。
映画のように、この主張は、キリスト教会からは異端とされました。
私も異端だと思います。
仏教で言えば天台本覚思想に近い。
しかしながら、論理的には、完全なる神としているのですから、その完全なる存在がした贖罪は完全なものにならないとおかしいという結論になるはずです。
この映画によって、様々なことを考えさせられました。