「沈黙」は、捕らわれた司祭が信者を拷問から救うには踏み絵という、究極の選択を迫られる物語だ。考えさせられる内容だった。ただ、引っ掛かったことがある。司祭に棄教させようとした、長崎奉行の井上筑後守の考え方だ。井上は日本を「泥沼」と表現して異質性を強調し、キリスト教の種はまけても根付かないと主張した。
そういう見方もあるかもしれない。日本でキリスト教信者は一時、三十万人にも増えたが、中にはポルトガルとの交易を考えての表面的な信者たちもいた。江戸幕府が禁じると、棄教が相次ぎ、キリスト教は下火になった。映画の中でも、井上は元信者の設定だった。井上は日本人の物の見方、考え方は独特で、外国の宗教を理解できず、逆に外国人はその日本人を理解できない、と繰り返した。
果たして、そうだろうか。日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師ザビエルは最初、彼らの「神」をどう表現すればいいか分からず、「大日」としたら、大日如来と勘違いされて「外国でもそうですか」と言われた。ラテン語の「Deus(神)」を使ったら、日本人には「ダイウソ(大うそ)」と聞こえて、失笑された。布教活動は試行錯誤の連続だっただろう。
だが、日本に二年滞在したザビエルは「日本人はわれわれによく似ている国民である。同程度の文化を有する」「自分にとってポルトガル人よりも親しい民族は日本人だ」とまで手紙に書いていた。禁教令で、六千人もが殉教したとされるが、そんな例は他に聞いたことがない。今も、少数ながら当時の隠れキリシタンの流れをくむ信者がいる。これは、日本人を理解した外国人や、キリスト教を理解した日本人がいたことの証明といえる。
私が日本文学研究を始めたころは、欧米に日本文学は知られていなかった。私の使命は日本文学の宣教師として、その素晴らしさを世界に伝えることだった。今や日本文学は世界中で読まれ、「沈黙」を撮ったマーティン・スコセッシ監督も私の本で日本について学んだという。日本や日本人は特殊でも異質でもなく、国際的に理解されている。
私の教え子で米ブリガムヤング大学教授のバン・ゲッセルは「侍」や「深い河」など多くの遠藤さんの作品を英訳した。ウイットに富んだ彼の英訳もあって、遠藤さんは一時、ノーベル文学賞候補に挙がったそうだ。映画「沈黙」は残酷なシーンが、私の趣味には合わなかったが、その制作に関わったバン・ゲッセルと久しぶりに話がしたくなった。 (ドナルド・キーン 日本文学研究者)
確かにいまは日本文学もかなり世界に浸透していると思います。
また、おっしゃるように、人間の本質の本質は一だと思います。
ただ、風土や歴史や受け入れた思想によって特性が異なるのだと思います。
日本人は形而上的なものに価値基準を置かず、『他者の目』に価値基準を置きます。
母親が店で騒いでいる自分の子供を叱るときも、『騒ぐのは悪いことだからやめなさい』とも『神様がみているのだからやめなさい』とも言いません。『店の人に叱られるからやめなさい』『他の人が見てますよ』『他の人に笑われるからやめなさい』と言います。
また、高度な理念、形而上的な善悪判断基準を持たないために、日本が人権蹂躙の中国の暴走を許してしまいました。歴史上、本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。
天安門事件で自国民を弾圧虐殺した中国を世界中が激しく非難しました。そして厳しい経済制裁を科しました。その時に、唯一、中国を経済的に援助し、サポートしたのが日本です。日本のこの抜け駆け行為によって、世界の中国への制裁はなし崩しになってしまい、中国は人権蹂躙の体質をそっくり残したままで、経済的に発展していきました。
中国は人口が多く、経済界にとってはとてもおいしい市場だったのです。世界は人権蹂躙を激しく非難し、日本だけが経済的な利益を選択したのです。
中国は、この日本の行為のおかげで、人権蹂躙や他国への侵略体質はそのままで、経済的に膨張していき、世界第二位の経済大国になりました。
それも日本が中国の人権蹂躙に目をつぶったおかげなのですが、中国は自国民をまとめるために反日に舵を切り、国を挙げて反日教育をしていきます。
日本もこれからは、その国が金儲けができる国であっても、悪いことは悪いと判断する理念は持たないといけないと思います。