アジアは沼地?

福川 (1.75.4.203)  

ご返信ありがとうございます。 『沈黙』で蘇った宣教師の報告の言葉、さもありなん、です。悲しい事ですが、史実として受けとめないといけませんね。気になっていた作品ですので、今度、観てみようと思います。 日本昔話の傾向の件、言われてみれば、確かにそういう気がしてきます。これも悲しい現実ですが。 日本の神話に詳しいわけではないですが、日本書紀で描かれている、この国の成り立ちの話も、極めてチープなストーリーばかりで、同時代やそれよりはるか以前に海の向こうで創造され世界中に拡がっていった神や仏の物語の足元にも及ばないと思います。だからこそ、ショーシャンクさんも、日本仏教に見切りをつけられ仏陀の教えを探究され始めたのだと思われますし。 とは言え、出雲や伊勢にお参りすれば、その比類なき神秘的雰囲気に感じ入るところはありますし、知覧も回天基地も靖国原爆ドームひめゆりの塔も全て重要な教育施設だと認識していますし、さらに真子様の結婚問題には一国民としてとても悩ましい気持ちにもなりますし、天皇家不要を訴える極左には呆れるのみなんですが。
 
日本は、そしてアジアは、形而上的なものにとって沼地なのか、という問題は自分の中でももう少し掘り下げてみたいとは思います。
日本は、科学部門では傑出した人を生み出してきましたし、それはノーベル賞の科学部門の受賞ラッシュを見ればわかります。
しかし、世界的な哲学者はひとりもいません。西田幾多郎は禅の境地を絶対矛盾的自己同一という言葉で表しましたが、世界的な哲学者とは言えないと思います。
私は代々神道家ですし、祝詞もあげていて、神道になじみがある方だとは思いますし、神道の素晴らしさもわかっているつもりです。
ただ、日本人の特性として、目に見えるものを徹底的に改善する才能は飛びぬけていて、どのような機械も小型化、精密化させたらすごいですし、世界のどんな料理も本場より美味しくする才能はあるのですが、視野が広がらないというか、身近なもの目に見えるものに興味が集中する傾向にあるような気もします。
これはこれから考えていこうとは思いますが。
 
 
 
マグノリア (219.62.234.179)  
ショーシャンクさん、みなさん こんばんは。 黄之鋒(ジョシュア・ウォン)さん、周庭(アグネス・チョウ)さんが逮捕起訴されたけども釈放されたとのこと、良かったです。 中国はもう香港の民主化要求に対しては武力行使も辞さずと示しているようで、今回は釈放されても安心は出来ないですね。 メディアにも出て有名な彼らには今のところ直接的暴力はふるっていないようでしたが、周庭さんのツィッターには6月に逮捕された60才の人が酷い拷問を受けた様子がアップされていて、香港警察の蛮行に憤りを覚えます。 中国の人権蹂躙が他人事だと見ないふりをしてたら恐ろしいことになりますね。 日本は形而上での”沼地”ではないか、哲学がないのでは、とショーシャンクさんは書かれています。 自分にはとても難しいのですが、 ドナルド・キーン先生はザビエルの例をもって、「日本や日本人は特殊でも異質でもなく、国際的に理解されている」と言われています。 日本や東アジアはその思想哲学について欧米ほど深く研究されてこなかったがために異質だという先入観があるのではないか、人間の本質はなべて同じではないか、と自分には思えるのです。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2017020502000126.html
 
マグノリアさん、こんばんは。
ドナルド・キーンの文の紹介ありがとうございます。
転載して見ました。
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気になる映画があったので見てきた。キリスト教が禁じられた江戸時代、長崎を舞台に、ポルトガルから密入国した司祭の苦悩を描いた「沈黙-サイレンス-」だ。私は原作者の作家、遠藤周作さんと親交があり、原作を半世紀以上も前に読んでいた。江戸時代の日本に関心があったので、ポルトガルなどからの宣教師が母国へ書いた手紙も、かなり読んだことがある。

 「沈黙」は、捕らわれた司祭が信者を拷問から救うには踏み絵という、究極の選択を迫られる物語だ。考えさせられる内容だった。ただ、引っ掛かったことがある。司祭に棄教させようとした、長崎奉行井上筑後守の考え方だ。井上は日本を「泥沼」と表現して異質性を強調し、キリスト教の種はまけても根付かないと主張した。

 そういう見方もあるかもしれない。日本でキリスト教信者は一時、三十万人にも増えたが、中にはポルトガルとの交易を考えての表面的な信者たちもいた。江戸幕府が禁じると、棄教が相次ぎ、キリスト教は下火になった。映画の中でも、井上は元信者の設定だった。井上は日本人の物の見方、考え方は独特で、外国の宗教を理解できず、逆に外国人はその日本人を理解できない、と繰り返した。

 果たして、そうだろうか。日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師ザビエルは最初、彼らの「神」をどう表現すればいいか分からず、「大日」としたら、大日如来と勘違いされて「外国でもそうですか」と言われた。ラテン語の「Deus(神)」を使ったら、日本人には「ダイウソ(大うそ)」と聞こえて、失笑された。布教活動は試行錯誤の連続だっただろう。

 だが、日本に二年滞在したザビエルは「日本人はわれわれによく似ている国民である。同程度の文化を有する」「自分にとってポルトガル人よりも親しい民族は日本人だ」とまで手紙に書いていた。禁教令で、六千人もが殉教したとされるが、そんな例は他に聞いたことがない。今も、少数ながら当時の隠れキリシタンの流れをくむ信者がいる。これは、日本人を理解した外国人や、キリスト教を理解した日本人がいたことの証明といえる。

 私が日本文学研究を始めたころは、欧米に日本文学は知られていなかった。私の使命は日本文学の宣教師として、その素晴らしさを世界に伝えることだった。今や日本文学は世界中で読まれ、「沈黙」を撮ったマーティン・スコセッシ監督も私の本で日本について学んだという。日本や日本人は特殊でも異質でもなく、国際的に理解されている。

 私の教え子で米ブリガムヤング大学教授のバン・ゲッセルは「侍」や「深い河」など多くの遠藤さんの作品を英訳した。ウイットに富んだ彼の英訳もあって、遠藤さんは一時、ノーベル文学賞候補に挙がったそうだ。映画「沈黙」は残酷なシーンが、私の趣味には合わなかったが、その制作に関わったバン・ゲッセルと久しぶりに話がしたくなった。              (ドナルド・キーン 日本文学研究者)

 

 

確かにいまは日本文学もかなり世界に浸透していると思います。

また、おっしゃるように、人間の本質の本質は一だと思います。

ただ、風土や歴史や受け入れた思想によって特性が異なるのだと思います。

日本人は形而上的なものに価値基準を置かず、『他者の目』に価値基準を置きます。

母親が店で騒いでいる自分の子供を叱るときも、『騒ぐのは悪いことだからやめなさい』とも『神様がみているのだからやめなさい』とも言いません。『店の人に叱られるからやめなさい』『他の人が見てますよ』『他の人に笑われるからやめなさい』と言います。

 

また、高度な理念、形而上的な善悪判断基準を持たないために、日本が人権蹂躙の中国の暴走を許してしまいました。歴史上、本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。

天安門事件で自国民を弾圧虐殺した中国を世界中が激しく非難しました。そして厳しい経済制裁を科しました。その時に、唯一、中国を経済的に援助し、サポートしたのが日本です。日本のこの抜け駆け行為によって、世界の中国への制裁はなし崩しになってしまい、中国は人権蹂躙の体質をそっくり残したままで、経済的に発展していきました。

中国は人口が多く、経済界にとってはとてもおいしい市場だったのです。世界は人権蹂躙を激しく非難し、日本だけが経済的な利益を選択したのです。

中国は、この日本の行為のおかげで、人権蹂躙や他国への侵略体質はそのままで、経済的に膨張していき、世界第二位の経済大国になりました。

それも日本が中国の人権蹂躙に目をつぶったおかげなのですが、中国は自国民をまとめるために反日に舵を切り、国を挙げて反日教育をしていきます。

 

日本もこれからは、その国が金儲けができる国であっても、悪いことは悪いと判断する理念は持たないといけないと思います。