「苦=dukkha」が要諦

 マグノリア (60.77.198.126)  
ショーシャンクさん こんばんは。
『仏陀の真意』読んでみました。
「一切の形成されたものは苦である」 この一句は水を飲むように、自分の中に自然に入ってきました。
途中、ページを何度か行きつ戻りつしながらも、ショーシャンクさんの丁寧に書かれた跡を辿っていくと 整然とした道が開けていくような明るい気分になっていくのに気づきました。
いちばん最後に訳された『法華経如来寿量品自我偈』 これは父が生前いつも手元においていました。
わたしはまだ子供で、ただ文字を見て部分部分の意味を何となく想像していた程度でしたが 『仏陀の真意』を読み、訳された『法華経如来寿量品自我偈』読んで、 とても満たされています。
”仏の慧光は無数劫に無量を照らしている。
” また折に触れて読んでみたいと思います。 ありがとうございました。
 
 

 

 

マグノリアさん、おはようございます。

『仏陀の真意』、読んでくださり本当にありがとうございます!

そうなんです。

「一切の形成されたものは苦である」

この言葉が、仏陀の理法の要諦であり、最初の一歩で最後の一歩でもある、極めて重要な言葉です。

この「苦」=dukkhaは、時代を経るうちに説かれなくなっていきます。

部派仏教では、「dukkaというのは苦しみという意味ではない。無意味とか空しいとか言う意味である。」というようになっていきます。

大乗仏教では、「苦」に替わって、「空」が仏教の根本理念とされていきます。

 

仏陀在世中や直弟子の時代はほとんどの弟子たちが理解していましたが、後世の人類は、仏陀の説いた「苦=dukkha」を理解できなかったために、仏教が歴史上の仏陀の真意からかけ離れたものになっているのではないか、というのが私の考えです。

それほどまでに、仏陀の説いた「苦」は、深遠で微妙な言葉です。

 

私が死んだ後にでも、すべての仏教権威や宗祖や宗派に囚われず、歴史上の仏陀の真意とはどういうものだったのかを見つめ直す機運が盛り上がることを期待しつつ、本という形に残しました。

 

原始仏教から導き出された仏陀の真意から、大乗仏典を解釈すると、とても活き活きとした光り輝くものになると思っています。

その一例として、おっしゃっている法華経自我偈の解釈を書きました。

 

読んでいただき、そして感想を書いていただき、誠にありがとうございました、感謝いたします。