ショーシャンクさんこんばんは。
いやーショーシャンクさんの投稿はいつも元気が出ます。ありがとうございます。
ところで一つ以前から聞きたい事があったんですが、ちょっと失礼かなと思って聞けなかったのですが、株で儲けて会社の借金を返済するとか、それ以上に欲望を持つことをショーシャンクさんは肯定されていますよね? 最近仏陀のスッタニパータを読んでいるんですが、禅だけではなく、仏陀も欲望を諌めることをしつこく説いています。私は別に非難するつもりではなくて、別に犯罪ではないですし、株で儲けても全然問題ないと思ってますが、ちょっとショーシャンクさんの中でどういう風に正当化されているのかと思いまして。 最近私もこの世は夢みたいなもんだから、どうせ見るならいい夢みたいなと思い始めていて、あぁショーシャンクさんの様な生き方がいいなぁと思ってます。 だからショーシャンクさんが仏教の欲望否定的なストイックな部分と、世俗での生き方の内部でどうバランスをとっているのか興味あります。
たーぼーさん、おはようございます。
欲望は欠乏感から生じます。
執着は、精神が一点に固定化してしまうことです。
どちらも、無量から離れたことが原因で生じます。
精神が無量であれば、無量が現象に現れてくるのです。無量が現象に現れてこないうちはその人の精神は無量にはなっていないのです。
ほとんどすべての人は、欠乏感からその欠乏したものを喉の渇いた旅人が水を求めるように渇望します。これが欲望です。
ですから、人は『限定品』と煽られれば欲しくなってしまうのです。
同じものでも、在庫が腐るほど有ったときには欲しくもなかったものが、行列ができて残りわずかとなったときには欲しくなるものです。
それは欠乏感から来ています。
欲望を持つ人は貧乏なままです。欠乏感ばかりを出しているから。
無量の富を引き寄せる人は、欠乏感を持たず欲望を持たず無量感を持ち『夢』を持ちます。
『夢』は欠乏感から生じるものではなく、画家が白いキャンバスに思い通りの絵を描くようなものです。
それは解放であり、『遊び』です。そこに欠乏感は存在しません。楽しんで創造していく感じです。
お金や富は自由の象徴です。お金は時間的空間的な自由を与えてくれます。
この世をよくするパワーにもなります。
お金はあればあるほどいいのです。
しかし、持つことによって、それを執着としてしまえば、途端に無量の状態から転落し精神は一点に固定化され限定されたものとなります。急にお金ができた人が傲慢になり驕ってしまって転落の人生になってしまうのはそのせいです。
私は今死んでも、財産が何億あろうと『惜しい』とも『もっと使っておけばよかった』とも思いません。お金は生きている間だけ自由をもたらしてくれるものだと考えていますし、それへの執着はありません。
私はまだ精神が無量になっていないので、富も無量ではありません。無量に近づけば、給孤独長者のような生き方が理想です。
仏陀が執着を捨てろというのは、執着が無量から離れさせ苦の集積へと向かわせるからです。
そして、仏陀が言っているように、欲望は実に甘美であり人を溺れさせるものです。特に欠乏感を伴うと欲望は何十倍にもなります。
芥川龍之介の『芋粥』は知っていますか。ある貧乏な人が芋粥が大好きで、しかし芋粥は高価なものなのでなかなか食べることができない、一度でいいから芋粥を腹一杯食べたいと強烈な欲望を抱きます。それを聞いた裕福な人が芋粥を有り余るほど用意して食べさせようとするのですが、そのときになるとなぜか全く芋粥が欲しくなくなったと言う筋です。
これこそが欲望のメカニズムです。欲望の大部分を占めるのは欠乏感です。
ありあまるものには欲望は起きないのです。
欠乏感を除去し、無量感を抱くようになれば、人間を苦に追いやる欲望や執着はなくなり、あっても生存に必要なものだけに整えられていきます。
食べ物の好き嫌いも全くなくなっていきます。身体の健康維持に必要なものだけを取るようになります。
今までの仏教や宗教で間違っていたのは、欲望は悪いと教えられてきて、欲望をなくそうとしたからです。欲望は抑圧したり制限したり減らそうと努力したりすると、逆に何十倍にも膨らんできます。
欠乏感が膨張するからです。