ねこまるさん、こんにちは。
今年も大河ドラマが終わってしまう時期を迎えましたね。
今年の『どうする家康』も途中リタイアせずに全部見ました。
もともと筋書きに無理がありすぎるドラマだったので、最後まで文句言いながら見ることになりそうです。
家康が晩年、毎日『南無阿弥陀仏』とひたすら念仏を書き連ねていたエピソードをこのドラマは採用していて、それはよかったと思いました。
このエピソードを取り入れたドラマは今までなかったように思えますから。
何ヶ月前かにも書きましたが、家康は豊臣秀頼が立派で頭も切れる若者だったことに愕然とします。
女性ばかりに囲まれて過保護に育てられた馬鹿殿というもっぱらの噂でしたから。
秀頼が噂どおりの阿呆であれば、家康は、領地を替えて一地方の小大名として生かせておいたはずです。
何せ、家康は豊臣秀吉に臣下の礼をしていますし、『秀頼を頼む』という秀吉の遺言を了承したのですから。
約束したのに秀頼を殺しては、一大悪人になってしまうリスクがありました。
しかし、家康の後継者の秀忠は、関ヶ原に間に合わなかったとんでもない凡人、無能の者です。秀忠の長男の家光も化粧をして母親の江からも家臣からも跡継ぎには相応しくないと思われていた子供です。
それに比べ、秀頼は体格も態度も堂々としており、受け答えも頭の良さが分かる切れ味でした。
家康は暗澹たる気持ちになったでしょう。
時間は圧倒的に豊臣家の味方です。
家康は75歳、秀頼は20歳。
家康はその時代の平均寿命よりずっと年を取っています。
いますぐ死んでもおかしくありません。
それに比べ、秀頼は、これからどんどん経験を積み成長していって立派な武将になる年齢です。
『御所柿は 独り熟して落ちにけり 木の下にいて拾う秀頼』の狂歌があるように、誰もがそう思っていました。
秀頼は、家康が死ぬのを待てばいいだけだったのです。
跡継ぎはぼんくらの秀忠ですし、その奥さんの江は淀君と姉妹です。
さらには、秀頼の妻は、秀忠と江の娘の千姫です。
家康が死ねば、秀忠は秀頼にも敬意を払い、両立させるように計らうでしょう。
ですから、『どうする家康』の脚本のように、方広寺の鐘の銘文に豊臣家がわざと呪詛したものを入れて問題を起こすわけがありません。
これは、徳川が、とんでもないいちゃもんをつけて秀頼を殺そうとした策略以外の何ものでもありません。
とんでもない言いがかりをつけて揉め事を起こすのはヤクザのやり方ですね。
そこまでして、秀頼を殺さなければならなかったのです。
また、前回の『どうする家康』のように、淀君は戦をしなくてもいい、秀頼に任せると言って、秀頼が自ら先頭に立ち戦をする決断をするというシナリオは、史実と違います。
本当にそうであれば、豊臣が勝つチャンスは非常に高かったでしょう。
事実は、大坂冬の陣夏の陣で、豊臣秀頼が先頭に立って戦をしてほしい、そうすれば勝てるという場面がいくらでもあり真田幸村などが秀頼の出馬を懇願しましたが、淀君が頑として拒否したのです。
冬の陣で大砲を撃たれてびびってすぐ戦をやめたのは淀君です。
戦をするのであれば、秀頼に先頭に立たせる覚悟、そして城とともに討ち死にする覚悟が必要ですし、大砲でびびってやめるのであれば、最初から戦などせず、地方の小大名で生き残る覚悟が、淀君に必要でした。
秀頼は先頭に立つ気はあったと思いますが、淀君の愚かさが豊臣家を滅ぼしたと思います。
淀君に実権があったことが最悪でした。
家康は自分の年齢のことを考え、明らかに焦っていました。
豊臣側は、時間稼ぎをすればよかっただけです。
お金をなるべく使わず、いちゃもんをつけられるようなことを一切しなければよかったのです。
しかし、淀君は寺社を建立しまくったり、大量の浪人を抱えたりして、膨大な出費をしていました。
お金を使うのであれば、天皇や朝廷にお金を配って、家康が無理な言いがかりをつけてきたときに調停してもらったりできるようにすればよかったのです。
勅許や院宣を全く無視することは、豊臣家がまだ力を持っている時代の徳川家にはできませんから、時間稼ぎには十分なりました。
頭が切れて交渉がうまい人を取り立てればよかったのです。
家康が『南無阿弥陀仏』のところを、『南無阿弥家康』と書いた箇所があるのは事実です。
この真意は分かっていません。
このドラマのように、最後に『南無阿弥家康』と書いた訳ではなく、途中で6ヵ所くらい書いています。
ですから、書き間違いの可能性が高いですが、そんな書き間違いするかな、という疑問はあります。